さてさて…
長徳(ちょうとく)三年(967)五月に発令された、非常大赦(ひじょうたいしゃ)により
前年の政変(長徳の変)で出雲国へ左遷されていた、出雲権守隆家(いずもごんのかみたかいえ)が帰洛を果しました
正式な罪状は、出雲左遷でしたが、任地赴任の途中、隆家は胸病(きょうびょう)を理由に途中国での療養を懇願
要請を受けた、『黒光る君』こと小野宮実資(おののみやさねすけ)の周旋により、隆家は但馬国(たじまのくに)での養生を
認められました
但し、病が癒えても、出雲に下ることはなく、そのまま但馬在国を続けた翌年に、大赦による入京の運びとなったのですが…
召喚に先立ち、一条帝(いちじょうてい)は、わざわざ側近の小舎人(こどねり)を但馬に遣わして、隆家を伴わさせるという
大変懇切な配慮を見せたのです
大赦・召喚決定から、半月程で帰京した隆家ですが…
直ちに官界への復帰は認められず、帰京から約半年後の同年十月初めに、兵部卿(ひょうぶきょう)に任命されたのです
兵部省(ひょうぶしょう)とは、朝廷の政務を司る、太政官八省(だじょうかんはっしょう)の一であり、主に諸国の軍団管理や武器の管理等の軍事事務や、武官の人事考課を扱う役所でした
兵部省のトップが卿(きょう)で、隆家は今風に言えば、防衛大臣的なポストに新補(しんぶ)されたのですが…
この兵部卿には、皇族である親王(しんのう)、若しくは中納言クラスの公卿が兼務することが常となっており、この頃には
実権を有しておらず、前者は名誉的、後者は閑職的な位置づけとされていました
したがって、隆家は議政官(ぎせいかん)の官職を持たない、散位兵部卿(さんにひょうぶきょう)という閑職の地位に就任したのですが、この後戻って来る、兄伊周(これちか)と比べれば
相当、幸運であったと思われます
若干、先走ってしまいますが、伊周が太宰府(だざいふ)から帰洛したのは、隆家より遅れること半年以上の、同二年十二月のことでした
伊周も弟と同じく、病治療を口実に、播磨国(はりまのくに)滞在を認められていたのですが、生母高階貴子(たかしなのきし)の
病気見舞いをすべく、無断入京を犯してしまった結果、本当に太宰府送りになってしまいました
遠隔地であった故に、召喚の報を受けても、直ぐには都に戻ることは叶わず、漸くその年の暮れに入京来たのです
都に帰還を果した伊周ですが、官界への復帰の道のりは、容易に開かれず…
帰洛から八年後の、寛弘(かんこう)二年(1005)に、漸く朝政(ちょうせい)への参画を許されたうえで、参内を再開することになったのです
但し、位階の面では、参政が認められた時点で、従二位(じゅにい)に昇叙(しょうじゅ)されていたのですが
かなり長期間、無官(むかん)の時期を過ごすことを強いられたのです
同じ左遷されながらも、兄弟達の官界復帰の時期に、大きな差が出た理由には…
執政であった左大臣道長(さだいじんみちなが)の思惑があったと考えられます
申すまでも無く、中関白家(なかのかんぱくけ)兄弟は、道長の政敵であったのですが…
道長にとって、危険な存在であったのは
出家したにも拘わらず、一条帝の揺るがない愛情を勝ち得ている、中宮定子(ちゅうぐうていし)の兄である伊周でした
自身が起こした不祥事で、没落の憂き目に遭った伊周が、左遷から僅か一年余りで召喚されたことは、道長にしてみれば
想定外であったと思われます
既に前年末に、一条第一皇女の脩子(しゅうし)を出産した定子が、この後、一条の意向により内裏に戻って来た場合…
仮に定子が皇子を産んだ場合、その皇子の外伯父(即ち外戚)として、伊周の復権の道は開かれることになり…
未だ、娘彰子(しょうし)を後宮に入内させることが出来ない道長は、焦燥の念に駆られていたと思われます
更に付言するならば、伊周は一条の従兄弟で義兄であり、定子サロンにおける中関白家との交流は、両者の人間的な信頼関係形成に大きく寄与していました
一度は左遷の沙汰を下したとはいえ、根本的な信頼関係は容易に壊れることはなく、ましてや赦免・召喚されたならば尚更でした
心情的に一条が、外叔父である道長よりも、家族同然の存在であった伊周に親愛の情を持つのは必然で
道長としては、将来の伊周の朝政復帰は不回避としても
その時期を出来るだけ引き延ばしたいと考えたでしょう
その点、伊周・定子の弟であった隆家は、一条帝との親密度において、二人よりも薄く、一条帝への傾斜度は少なかったと
思われ
道長も、一条帝に対する、伊周・隆家の間の微妙な温度差を観察しながらも、(閑職ながら)先ずは隆家の官界復帰を実現させて
あわよくば、兄弟の離間を促進若しくは、自分の陣営に隆家を引き込むことを意図していたのかもしれません
(但し、道長の深謀が、どれ程の効果があったのかは明快に答えられませんが…)
さて、伊周の帰洛が近いという状況を目前にして、道長は政敵の復権を阻むべく、何らかの手段を講じることに迫られたのですが
その手段は、果して何であったのか
続きは次回と致します