さてさて…
新たに、一条帝(いちじょうてい)の後宮に入内(じゅだい)した、有力公卿の娘達のお話の続きです
先陣を切って入内を果したのは、大納言公季(だいなごんきんすえ)娘の義子(ぎし)でした
下級貴族に過ぎなかった、高階氏(たかしなし)の血を引いていた、中宮定子(ちゅうぐうていし)に比べて…
両親が共に、醍醐帝(だいごてい)の孫であった義子は、出自の上では、遥かに中宮を凌駕していました
本命と目されていた、左大臣道長(さだいじんみちなが)娘の彰子(しょうし)が、まだ入内適齢期ではなかったこともあり…
一条帝は、定子以外の新しい后妃(こうひ)を後宮に迎えなければならず、それは、愁眉(しょうび)の急とされたのです
高貴な血筋である女性を后妃にすることを望んでいた、国母詮子(こくもせんし)の意向もあり
義子はその条件を十分に満たしていたのですが
理由は不明ながら、一条が彼女を寵愛することはなく
詮子と道長は、次に入内させる公卿の娘の選定を開始したのです
そして、彼等の眼鏡に叶ったのが…
太政官(だじょうかん)において、道長に次ぐ序列二位の右大臣顕光(あきみつ)の娘、元子(げんし)でした
彼女の父親である顕光は、道長・詮子の父兼家(かねいえ)の同母兄、兼通(かねみち)の息子で、彼等は従兄弟同士でもありました
兼通と兼家は、摂関の座を巡り、凄まじい抗争を繰り広げられたことで知られてきるのですが…
長兄伊尹(これまさ)を含めた、北家九条流(ほっけくじょうりゅう)三兄弟の争いは
紆余曲折の末、三男兼家の勝利に帰し、摂関の地位も、彼の子供世代に引き継がれるに至ったのです
兼家が自分の一族に摂関職を相承し得た原因として
長兄・次兄の早世があったことは、論を俟たないのですが…
もし、現職の関白だった次兄兼通が、貞元(じょうげん)二年(977)に病没せずに、長く権力を維持していたならば…
彼の憎悪を一身に浴びていた兼家が浮上することはなく、摂関の座も、兼通一族に伝えられた筈で…
兼通の嫡男であった顕光が、摂関になった可能性もあったと思われます
さて、元子に触れる前に、父である顕光の経歴をご紹介致しますと…
前掲の通り、彼は兼通の第一子として、天慶(てんぎょう)四年(994)に誕生しました
彼の生母は、兼通正妻で、陽成帝(ようぜいてい)の皇子元平親王(もとひらしんのう)の嫡女である昭子女王(しょうしじょおう)で
嫡妻腹の第一子である顕光は、兼通を初代とする『堀河家』(ほりかわけ)を背負って立つことを期待されていました
兼通が権力を手中にしたことにより、必然的に彼は息子達の出世にも意を用いたのですが…
兼通が最も期待を寄せていたのは、嫡男の顕光ではなく
昭子女王出生の同母弟である、朝光(あさてる)だったのです
正妻腹とは云え、朝光は兼通の四男であったのですが、父の目には、弟の方が兄よりも優れていると映ったのでしょうか
兼通全盛期時点で、既に顕光は、官職面で朝光に追い越されていたのです
参考までに、兄弟の任官時期の推移をご紹介致しますと…
公卿任用への登竜門とされていた蔵人頭(くろうどのとう)任官では
天延(てんえん)二年(974)二月八日、蔵人頭に任命された朝光に対して、顕光が蔵人頭となったのは…
それより半年余り後の同年十月五日であり、しかも、朝光はその前の同年四月、参議(さんぎ)昇進を果し
晴れて公卿の列に連なっていたのです
顕光が漸く参議に進んだのは、翌天延三年(975)十一月のことであったのですが、この年の正月
朝光は権中納言(ごんちゅうなごん)に昇進しており、官途(かんと)において、兄は弟の後塵を拝することを余儀なくされていたのです
貞元二年四月、顕光は権中納言へと昇進したのですが、同日に朝光は権大納言(ごんだいなごん)に昇っており…
兄弟の官位の差は、容易として縮まることはありませんでした
因みに、この年の十一月に父兼通が薨去
後ろ盾であった父の死により、兄弟達の昇進スピードは著しく停滞
更に、父の不倶戴天の敵であった叔父兼家が摂政に就任して以降は…
彼等は従兄弟である兼家の息子達に、次々と官位を追い越されてしまったのです
但し、兼家の配慮があったのでしょうか
寛和(かんな)二年(986)に、朝光・顕光は、共に正官の大納言・中納言に官職を進めたのですが、ここから約十年程…
彼等の官職が上がることはなかったのです
さて、兼家一族が我が世の春を謳歌していた頃も
堀河家は、➀朝光・②顕光という序列の変化はなかったのですが
長徳(ちょうとく)元年(995)三月、猛威を振るっていた疫病に罹患した朝光が死去したのです(享年四十五歳)
朝光の死を皮切りに、公卿達の約半数が疫病で命を失ったのですが…
筆頭中納言となっていた顕光は、この疫病禍を生き残ることが出来たのです
件の病禍で生き残れたかどうか…
まさしく、運こそが、公卿達の明暗を分けたのですが…
生き残った公卿達のトップであった内大臣伊周(ないだいじんこれちか)と、ナンバー2の権大納言道長(ごんだいなごんみちなが)が権力争いを繰り広げた結果…
長徳の変で伊周が失脚
太政官次席の座には、顕光が昇格したのです
長徳二年(996)七月二十日、内覧右大臣(ないらんうだいじん)であった道長は、左大臣に昇進
これに対して、前年に権大納言に進んでいた顕光は、道長の昇格を受けて、空席となった右大臣に昇進したのです
官位で自分を上回っていた弟朝光や、上臈公卿達の死亡という、僥倖により…
顕光は道長に次ぐ、公卿第二位の座を占めるに至ったのですが…
右大臣となって程なく…
娘元子を一条帝に入内させる話が持ち上がったのです
続きは次回に致します