さてさて…
永祚(えいそ)二年(990)正月、元服を済ませたばかりの一条帝(いちじょうてい)の許に
内大臣道隆(ないだいじんみちたか)の長女定子(ていし)が入内
まもなく彼女は、女御(にょうご)に昇進しました
この時、未だ十一歳に過ぎなかった一条ですが、元服を終えたことで、成人に達したと見なされました
これを受けて、摂政であった外祖父兼家(かねいえ)は、同年五月五日、摂政と兼帯していた太政大臣を辞任
新たに関白に任命されました
帝が幼い時は摂政、成人の場合は関白に就任するという先例がある以上、幼年で即位した帝が元服したことを受けて
摂政もまた関白に転じることになる訳ですが…
兼家は関白就任から僅か三日後の同月八日、政界からの引退を表明
関白の座を道隆に譲り、出家を果してしまったのです
既に健康状態が悪化、死期が迫っていることを悟っていた兼家は、最後の大仕事である、一条帝の元服と定子の入内が完結されたことを見届けたうえで、道隆に関白を継承させたのですが…
出家から僅か二ヶ月足らず後の、同年七月二日に六十二歳で薨去したのです
かくして、一代の宮廷政治家兼家は、波乱に満ちた生涯を閉じ、その権力は新関白道隆の中関白家(なかのかんぱくけ)に委ねられたのです
さて、執政の座に就いた道隆は、同年五月二十六日に、関白を辞職して、摂政に転じました
摂政⇒関白に転じるのは理解出来るのですが、一条帝が元服を終えた以上、執政の外戚は関白として帝の補佐役を務めるのが
常であるのに、何故、道隆は関白⇒摂政という、真逆な転任を行ったのでしょうか
この異例とも言うべき転任の背景には、一条帝の早すぎた元服があったと推測されます
前回もお話しましたが、帝の元服は十四歳~十五歳が平均的であったのですが、一条の元服は十一歳でした
年少といえども、元服した以上は、帝が自ら政治を行わなければならず、一人前の帝を関白が補佐することになる訳ですが…
やはり、十一歳ではまだ政治を行うことが難しいと判断されたのでしょうか
道隆は関白就任一か月に満たないうちに、摂政に転じたのです
更に、今一つの事情として
帝が元服しなければ、後宮に后妃を入内させることが出来ないという事情もあったのです
余命旦夕に迫っていた兼家は、一条が元服適齢期に達するまで待つことが出来ず、それ故に十一歳での元服を強行したうえで
即時に定子を入内させたのです
要は、入内させたという既成事実が出来てしまえば、問題は無い訳で、件の摂政⇒関白⇒摂政の目まぐるしい官職名の変更も
想定内であったかもしれませんね
(まさか、帝が元服した事実を覆すことは不可能ですからね)
尚、この年の十一月に永祚から正暦(しょうりゃく)への改元があり
翌正暦二年(991)に、道隆は兼任していた内大臣を辞任
後任は、同母弟の権大納言道兼(ごんだいなごんみちかね)が昇格したのです
(そして、道隆は亡父兼家と同じく、太政官官職の序列を離れ、摂政専任となったのです)
父兼家の後継者の座を逸した道兼は、一時は父の喪に服しない程の放埓な行動を取っていましたが、まもなく態度を改めた様で道隆後の摂関を目指すことに方針を変更したと思われます
兼家生前には、正官である権大納言の他に、同母妹の皇太后詮子(こうたうごうせんし)の皇后宮大夫(こうたいごうぐうたいふ)を兼帯していたのですが、兼家薨去直後には、右近衛大将(うこんえたいしょう)をも兼任していました
この時点で、官職で兼家流のナンバー2であったのですが、今回、兄道隆の譲りを受けた形での内大臣昇進は、それを更に決定付けたと言えます
因みに、正妻腹三兄弟末弟の道長は、永延(えいえん)二年(988)に権中納言(ごんちゅうなごん)、翌三年には右衛門督(えもんのかみ)を兼帯していたのですが、永祚二年九月には、権大納言へ昇進、更に十月には…
姪の女御定子が、中宮(ちゅうぐう)に冊立されたことを受けて、中宮大夫(ちゅうぐうたいふ)に任命されていました
即ち、道隆は、国母である妹と、中宮である娘の家政機関の責任者に、それぞれ同母弟を宛てたのですが、こすした官職面に
おいて彼等を優遇しておいたうえで…
自身の嫡男である伊周(これちか)を、道長と同じ権大納言(ごんだいなごん)に昇進させていたのです
そして、正暦三年(993)四月に
道隆は、関白に転任したのですが、この再度の転任は、名実共に一条帝が成人に達したことも、背景にあったと思われます
こうして、着々と権力基盤を固めつつあった道隆ですが…
実は、父兼家薨去から数ヵ月後に、前例のない一天四后(いってんよんぐう)を強行したのです
この物議を醸した出来事については、次回にお話します