さてさて…
永祚(えいそ)元年(989)二月二十三日の除目(じもく)により
(除目とは今で言う人事異動)
『黒光る君こと』こと、小野宮実資(おののみやさねすけ)は、参議(さんぎ)への昇進を果しました
円融(えんゆう)・花山(かざん)・一条(いちじょう)の治世で、通算八年近く、蔵人頭(くろうどのとう)を務め上げた末の栄転であり、実資自身にとっても、感慨深いものがあったと思われます
因みに、実資の任参議の同日に、権大納言道隆(ごんだいなごんみちたか)も内大臣(ないだいじん)に昇進しており、前回の記事でもお話した通り、この昇格人事は…
➀息子道隆を内大臣にしたかった摂政兼家(せっしょうかねいえ)
②実資を参議にしたかった円融院(えんゆういん)
両者の政治的な思惑が交錯、そして妥協の結果、セットで発令されたものでした
この頃、既に健康状態が悪化しつつあった兼家は、一刻も早く、自分の後継者が道隆であることを、貴族社会に公表する必要に迫られており、それ故、強引且つ辛抱強く、円融院の許可を得ようと政治折衝を続けていました
円融院の根強い反対を押し切る最後の一手が、公卿会議での『道隆任内大臣の確定』であり
太上天皇(たいじょうてんのう)は、政(まつりごと)に関われないという先例(表向き)がある以上
円融もこれ以上の反対は出来ず、遂に道隆の内大臣昇格が決定しました
但し、円融もさるもので、道隆の昇進を承認する条件として、実資の参議昇格を要求したのです
即ち、円融は本来、公卿出席の除目を経て、決定される官職人事のルールを無視して、自分の意中の人物を官職に任命せよ
と要求した訳で、これは完全な政治介入(例外はありましたが…)だったのです
当然、幼帝一条(いちじょう)に代わり、万機を総覧する兼家にしてみれば、たとえ父院であっても、円融の人事介入を阻止しなければならかったのですが…
道隆任の任内大臣が実現するかどうか
ギリギリの局面を迎えていた以上、ここは妥協して、円融の要求を承認せざるを得なかったと思われます
但し、円融の人事介入は今回が初めてではなかったのです
これより三年前の、寛和(かんな)二年(986)十月、円融は御幸(みゆき)して、京都西郊外を流れる大井川(おおいがわ)で
御遊覧(ごゆうらん)をしたのですが、その席上、供奉していた源時中(みなもとのときなか)を参議に任命したのです
時中が任参議の栄誉に浴した理由は、御遊の際に催された管弦の宴で、時中の演奏が見事だった故でしたが
実際、時中に参議任命の沙汰を伝えたのは、同じ御幸に随行していた兼家で、その際、彼は時中に対して…
『円融院の仰せにより、参議に任命する』と沙汰したのですが、その心中は複雑であったと思われます
また、その場に居合わせた貴族達も
『帝(一条)の御前ではないのに、院(円融)の仰せを奉じて、参議に任じるのは、極めて不審で尚且つ普通ではない』
と円融の人事権濫用に対して、批判の目を向けたとされています
件の話は、三百年後の南北朝時代の公卿である、北畠親房(きたばたけちかふさ)が著した『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)に記されているのですが、遥か後代になっても、この逸話が語られている背景には
天皇親政の理想型とされた、延喜・天暦(えんぎてんりゃく)の治の再現を目指した、後醍醐帝(ごだいごてい)のブレーンであった親房が…
帝の父方である、院(上皇)が万機を総覧する、院政(いんせい)を否定していたことが知悉されます
当時、円融が院政を考えていたのかどうか
詳らかではないのですが、在位の頃より、物事に積極的で、政務にも関心が深かった彼が、父院として幼い一条を後見しようと考えるのは、首肯されると思います
更に言葉を加えるならば、参議昇進の誉れを受けた時中は、兼家が最もその動向に注意していた、左大臣源雅信(さだいじんみなもとのまさのぶ)の長男であり、一貫して良好な君臣関係を維持していた雅信を通じて
摂政兼家の権力抑止を意図する円融が、人事権濫用という前例破りを、敢えて行うことで、兼家政権に揺さぶりをかけたのかもしれません
当然ながら、この掟破りの人事介入は、兼家の欲する所ではなかったのですが、更に今回、円融は
小野宮実資の参議昇進を求めた訳で、それも兼家が宿望としていた、道隆任内大臣との交換条件だったのです
当時、三十路を少し超えたばかりの円融でしたが、一代限りの帝という立場からの脱却を目指すことに端を発した、政治抗争を展開する中で…
内柔外剛に富んだ、強かな政治手法を身に付けていました
兼家も、想定外の円融の策士振りに、内心では不快感を禁じ得なかったのですが、道隆の内大臣就任を最優先とする以上
円融の求めた、実資の任参議を承諾したのです
では、円融は何故、実資を参議に押し込んだのでしょうか
その理由には、自らが最も信任を置いていた、源雅信が既に老境に達していたことが挙げられます
貞元(じょうげん)三年(978)の左大臣昇進以後、雅信は太政官筆頭大臣である役職を、十一年に亘り務めていたのですが…
永祚元年当時、七十歳となっていた彼は、流石に足腰の不調等を訴え、体に負担のある公事儀式を欠席する様になっていました
但し、恪勤な仕事振りは相変わらずで、尚且つ失錯等もなかったのですが、こうした雅信の体調面における衰えをみた兼家は…
新たな大臣職の補充という名目で、道隆の内大臣任命を強硬に推したのです
対する円融も、雅信の年齢面による衰えを認識していた筈で、雅信に代わり、自分の意の汲むことが出来得る人物を
公卿として送り込む必要性に迫られていたのです
そして、院の眼鏡に叶ったのが…
自身の在位中に蔵人頭として、精励恪勤な仕事振りを以って、信頼を勝ち得ていた実資だったのです
こうした、思惑の交錯した政局の中で、実資は参議昇任
長年に亘り、願って止まなかった公卿の仲間入りを果たしたのです
実資、時に四十二歳
漸く、政治の中枢に参画する地位を獲得したのですが…
後世において、賢人右府(けんじんうふ)と称された実資の、公卿としてのキャリアは、ここから始まったのです
同時に『小右記』に記される文句や憤懣の数も、より一層多く且つ長くなるのですが…
本日はここまでにします