さてさて
摂関政治において…
幼い帝に代わり、政治を総覧するのが摂政(せっしょう)
成人した帝を補佐して、政治を補佐するのが関白(かんぱく)
即ち、帝が元服前か元服後によって、官職が摂政又は関白となるのですが、母方の直系尊属である外戚(がいせき)が
政治の実権を掌握することに、変わりはありませんでした
では、摂政と関白、どちらの権限が強いのかとなると…
前者の権限が後者のそれを上回っていました
関白の職掌は、成人した帝を補佐することであり、基本的に元服を終えた帝は、自らの意思を政務に反映させることが出来る
即ち、親政(しんせい)を行うと見なされていました
太政官(だじょうかん)で行われる、陣定(じんのさだめ)等の会議で提出された、意見や議論の結果は、帝へ奏上
帝はこれ等の案件について、決裁を下さなければならないのですが…
その際、関白は、帝が政務決裁を円滑に行える様、補佐若しくは意見具申をする役割を担っていました
ところで
関白・摂政は、律令制(りつりょうせい)によって定められた太政官の官職ではなく、のちに新しく設けられた
令外官(りょうげのかん)でした
したがって、太政官会議の構成員である議政官(ぎせいかん)の官職を帯びていない摂関は、陣定(じんのさだめ)等の公卿達の
会議に参加する資格がなく
➀摂政ならば、帝に代わって、会議の結果報告を受けて、政務決裁を行う
②関白ならば、帝と共に会議の結果報告を受けて、帝の決裁を補佐若しくはアドバイスをする
という立場を取っていました
因みに、摂関であっても、太政大臣(だじょうだいじん)や、左大臣(さだいじん)・右大臣(うだいじん)等、議政官の官職を帯びていれば
その資格によって、会議に参加することが出来たのですが
その場合、摂関と議政官、どちらを優先すべきか 難しい判断を迫られることになったのです
(このことに関しては、機会を改めてご説明致します)
また、帝の代理人である摂政と異なり、あくまでも関白は、帝の補佐役という立場である故に…
関白の意見具申やアトバイスを受けても、帝は必ずしもそれに従うことはなく、自身の考えを優先させて政務決裁を下すことが
可能だったのです
ここが摂政と関白との権限の大きな違いであり、帝への影響力を行使することについては
関白は摂政に比べ、一歩後退せざるを得なかったのです
さて、兼家は六歳という、即位最年少記録を塗り替えた一条(いちじょう)帝の摂政に就任したのですが…
実はそれ以前に、外祖父摂政は存在したのかと言えば
兼家の高祖父(こうそふ)にあたる良房(よしふさ)が、貞観(じょうがん)八年(866)
当時の清和帝(せいわてい)の外祖父として、人臣初の摂政になった時であったのですが、実にそれ以来
何と、百二十二年ぶりの出来事であったのです
その間にも、摂関就任者はいたのですが、全て外伯叔父若しくは、よそ者(非外戚)であり、意外と外祖父摂政という最高の権限を有するケースが少なかったと言えます
そういう、空前の権限を獲得するに至った兼家は、政治権力で最も重要なそれである、人事権を駆使して、自身の子供達の官位を強引に引き上げていくことになるのですが…(この話しは機会を改めます)
その前に優先する事項として…
一条帝の即位式を行うに先立ち、帝生母たる女御詮子(にょうごせんこ)の権威を高めて置く必要があり、それが
彼女を皇太后位(こうたいごうい)に冊立することであったのです
皇太后とは、帝の生母を指す后位であるのですが、本来なら帝の正后たる皇后が、我が子(東宮)が即位した時点で昇格するのが
先例であったのですが
彼女は皇后を経ずに(実際は皇后位が塞がっていた)して、皇太后に昇格する初例となったのです
周知の通り、詮子は一条を儲けていたにも拘わらず、中宮(ちゅうぐう。皇后の別称)の座を、関白頼忠娘の遵子(じゅんし)に
奪われたため、未だに女御に留め置かれていたのです
それが、一条受禅(じゅぜん)という慶事により、彼女は国母(こくぼ)則ち、皇太后という栄職に昇った訳で
かっての屈辱を、遂に腫らすことが出来たのです
そして、ここから、国母たる詮子は、公私共に多忙を極めることになるのです
六歳である一条は、天皇がなすべき権限(天皇大権)のうち、政治面に関しては、外祖父たる兼家が代わって総覧することになって
いたのですが、それ以外の権限である、神事(しんじ)や儀式等については、いくら幼年でも帝がこれを主催しなければならず
それ故に、帝の身近にいて、これを補佐或いは事実上代行する人物が必要になったのです
そして、その唯一の適任者であったのが、帝の母である皇太后線詮子であり、それは国母に付与された権限でもあったのです
日記等の古記録(こきろく)によれば、一条帝の傍らには公私を問わず、常に国母詮子が控えており、母子は後宮内でく居所を同じくしていました
まだ六歳という事からも知悉される様に、一条を親元から離して生活させる訳にはいかず、生母詮子は国母という立場で
帝を後見することになったのですが
公式な儀式や神事の際にも、詮子が必ず同伴して、これ等を差配(兼家と協同でいうことですが)することによって、幼帝は無事に責務を果たしていたのです
即ち、詮子は帝に対する親権(しんけん・母権)を行使することによって、元服前の一条を、主に後宮という私的空間において
後見していたのですが、一方の政(まつりごと)という公的な後見は、外祖父たる摂政兼家が担っていました
この様に、帝が幼年(元服前)の場合、摂関政治は、外祖父摂関と国母による協同後見によって行われる場合が多く…
特に、国母の帝に対する親権行使こそが、帝の権威を補完、正当化する役割を担っていたのです
そして、国母になった詮子は、残された残りの人生全てを…
一粒種たる一条に捧げることになるのです
こうした、母親の献身的な姿勢や薫陶は、一条の成長に非常に大きな影響を与えたことは、論を俟たない訳で
在位二十五年を数え、末代の賢王(まつだいのけんおう)として、その英明さを讃美された一条帝の原点を、ここに見ることが出来ると思います
いつの時代でも、母は強しですね
本日はここまでに致します