さてさて…
『光る君へ』の進行具合を考慮するならば、引き続き、花山帝(かざんてい)の後宮の話をすべきなのですが…
劇中では完全にスルーされた、道長(みちなが)の長姉超子(ちょうし)の話を完結させたいと思います
冷泉院(れいぜいいん)に入内した超子が、三皇子・一内親王と子宝に恵まれたことは
彼女の父である右大臣兼家(うだいじんかねいえ)の両睨みの後宮政策に、最高の結果をもたらしたと言えます
一代主と目されていた円融帝(えんゆうてい)の在位が長期となり、兼家はかって兄兼通(かねみち)によって阻まれていた
次女詮子(せんし)の入内(円融に)を行い、彼女は皇子懐仁(やすひと)を出産しました
これで、中継ぎの帝と見なされていた円融にも、我が子に皇位を継がせられる可能性が出て来た訳で…
次期帝と内定している師貞(もろさだ)親王(花山帝)を、早期の退位に追い込み、その後に懐仁を即位させる
この一点において、円融と兼家と詮子は利害の一致を見たのです
しかしながら、兼家は皇統の嫡系は、あくまでも冷泉皇統であるという考えを保持し続けていました
但し、それは、冷泉→第一皇子花山を嫡流とする、今は亡き、村上帝(むらかみてい)や長兄伊尹(これまさ)の構想ではなく
冷泉の第二皇子である居貞(おきさだ)を嫡流(同母の二親王も同じ)とするという考えでした
花山と兼家とは外戚関係はなく(外祖父の弟。則ち大叔父)、花山の在位が長くなり、その出生の皇子が生まれる様な事態に
なれば…
皇統嫡流である花山の血筋を受け継いだ皇子に、花山が譲位することは誰の目にも明らかであり、それ故に兼家は次女を花山に入内させていた関白頼忠(かんぱくよりただ)とは、一線を画した姿勢を花山に見せていたのです
その為には、花山の皇子が誕生する前に、どんな手段を講じてでも帝を退位させる他なかったのです
『光る君へ』前回の放送でも、兼家は懐妊した花山女御(かざんにょうご)忯子(じし)のお腹の子を呪詛する企みを主導して
いました
その効果があったのかどうかは不明ですが
忯子は子供と共に落命してしまったのです
そうなれば、花山を退位させて、花山系の冷泉皇統を断絶させ、これに代わる冷泉皇統の主流に、超子出生の居貞以下三人の皇子を据えるという戦略を兼家は描いたと思われます
但し、今、私が描いていたと言ったのは、史実ではそうならなかった訳で、皇位は同じ兼家外孫でも居貞より四歳年少の懐仁が七歳で継承したのです
冷泉皇統にも男子の外孫がいた(それも三人)にも拘わらず、何故兼家は、円融系の懐仁を即位させたのか
ここからは、想像でお話をさせて頂きますが、居貞以下三親王の母である超子が既にこの世の人ではなかった
これが理由であったと思います
七歳で即位、一条帝(いちじょうてい)となった懐仁の後見(うしろみ)として、兼家は頼忠の譲りを受け、帝に代わり政務を
執り行う権限を委ねられる摂政(せっしょう)の任に就いたのですが、幼帝の治世を円滑に進行させるには…
今一つの要素が不可欠でした
それは、幼帝と後宮で同居して後見するという帝の母、則ち『国母』(こくも)の存在でした
摂政は幼帝の代わりを務めるのですが、それはあくまでも、政(まつりごと)の分野に限定される訳で、帝の日常生活は勿論のこと、政務の公事や儀式の場に、帝と共に出席するのが国母の役割でした
端的に言うならば、公的範囲は摂政である外祖父、私的範囲は生母である国母が担当することで、帝が果たさなければならない責務を協同で遂行する訳で、少なくとも帝が元服するまでは、この政治体制を採ることが最も理想的でした
これは母方の実家が政治を行う、摂関政治のキモの部分なのですが、実際は帝が即位する段階で、既に国母となるべき生母が亡くなっているケースの方が多かったのです
➀冷泉・円融の生母であった村上帝の中宮であった安子(あんし)
②花山の生母であった冷泉女御の懐子(かいし)
上記二名は、我が子の即位を見ることなく、鬼籍に名を連ねていたのですが、居貞兄弟の生母たる超子も二人と同じ運命を
辿ったのです
以上見て参りました通り、幼帝即位の段階で国母の後見が必要であった故に、一条即位の際、女御の座に留め置かれていた
生母詮子が、皇后(中宮)を飛び越えて、天皇の母の称号である皇太后(こうたいごう)を贈られ、晴れて彼女は国母として
一条を後見すべく、表舞台に出ることになったのです
尚、本来なら、皇后又は中宮を経てから皇太后に進むのが常なのですが、当時の中宮は先帝円融の正后遵子(じゅんし:頼忠娘)であったため、詮子は因縁ある彼女の上座となる皇太后(国母の証明)の座を掴んだのです
かって中宮の座を競望苦杯を嘗めさせられた遵子に対して、今回詮子は意趣返しに成功したのです
やはり、后妃にとって、皇子を産む・産まないかは、その運命を左右致しますね
お話しが長くなっておりますが…
もし仮に、超子が、天元(てんげん)五年(982)、後宮で兄弟姉妹と共に過ごした庚申(こうしん)の遊びの最中に…
『脇息(きゅうそく)に寄り掛かったまま、眠る様に息を引き取っていた』(『栄花物語』:えいかものがたり)
この様な余りにも悲しい出来事がなかったら、兼家は…
➀対立していた円融を退位させる(超子死去の数年前に妹詮子が懐仁を儲けてはいましたが…)
②花山の東宮に超子出生の居貞を擁立
③花山を早期に退位に追い込み、居貞を即位させる
④超子を国母として、摂政である自分と共に、我が子を後見させる
こうした筋書きの許、政略を進めていったと考えられ、それは大筋においては合致していると思います
しかし、超子が早世したので、生母のいる一条を先に即位させ、四歳年長の居貞を東宮に立てるという、逆さま現象が起きた訳です
なお、後日談になりますが…
後年の寛弘(かんこう)八年(1011)、即位した居貞こと三条帝(さんじょうてい)は、亡き母親に皇太后の称号を奉り、
その思慕の念を表明したのです
以上、大変長い話になりましたが、道長長姉超子のお話させて頂きました
『光る君へ』では触れられることはありませんでしたが、この後の劇中では、超子の子である三条帝は必ず登場しますので…
先ずは予習的に意味合いで数回に分けてご説明致しました
ご参考になれば、幸いです
本日はここまでに致します