さてさて…
藤原道長(ふじわらのみちなが)、今一人の同母姉である超子(ちょうし)のお話の続きです
安和(あんな)元年(968)、冷泉帝(れいぜいてい)に入内(じゅだい)した超子ですが、その翌年の安和二年(969)に
夫である冷泉は譲位
同母弟の東宮守平親王(もりひらしんのう)が即位しました
超子入内の同年、彼女の従姉妹で、先に冷泉に入内していた女御懐子(にょうごかいし)が、第一皇子師貞(もろさだ)を出産
心の病を抱えつつ在位していた冷泉に皇嗣(こうし)が誕生したことを受け、予ての路線通り、一代主とされていた守平こと
円融(えんゆう)が皇位を継ぐことになりました
したがって、残念ながら超子は冷泉の在位中に子女を挙げることは出来なかったのです
しかしながら、超子の父兼家(かねいえ)にしてみれば、嫡流たる冷泉皇統の次代の継承者は東宮となった師貞のみで
既に退位して上皇(じょうこう)になったとはいえ、超子が冷泉の皇子を産めば…
その皇子は、師貞有事の際、冷泉皇統を嗣ぎ得る存在となる訳で、兼家は外孫の誕生を待ち侘びていたのです
この時点では、中継ぎたる円融の在位が短期間になると予測されており、それ故に有力公卿達は
円融の後宮に娘を送り込もうとはしませんでした
一代主であると認識されている円融に、たとえ娘を入内させても、生まれた皇子が帝の座に就く可能性はない
これが当時の貴族社会の認識でした
その円融が、これから十七年間も在位するとは当時は誰も予想していなかったのですが…
東宮師貞の外祖父であった摂政伊尹(せっしょうこれまさ)の急死を契機に、円融は中継ぎからの脱却を目指して画策を開始
後継関白の座を巡る、北家九条流(ほっけくじょうりゅう)の兄弟であった兼通(かねみち)と兼家との抗争等もあり、政局は
混乱
その結果、円融の在位は予想位以上に長期化したのです
関白を賭けた、兄兼通との争いに敗れた兼家は、以後も関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)になった兄とは反目を
続け、兼通もまた弟の官位昇進を正三位権大納言(しょうさんみごんだいなごん)のままで停滞させる等、事態はドロ沼の抗争劇へと発展したのです
兄弟骨肉の争いは、兼通の病死によって終わりを告げたのですが、死の直前、兄は自分の後継関白の座を弟には譲らず…
従兄弟の小野宮頼忠(おののみやよりただ)を推薦したのです
しかも、兼家の兼帯していた右近衛大将(うこんえたいしょう)を剥奪するという降格人事を断行した上で、兼通は涅槃へと
旅立ったのです
兼家の生涯において、この時期は非常に苦しい局面であったのですが…
そんな逆境に遭った彼をして、愁眉を開かせる慶事が起きたのです
それは、冷泉院の女御であった超子が、入内から八年後の天延(てんえん)四年(986)に皇子を出産したのです
退位していたとは言え、冷泉院が皇統嫡流であることに変わりはなく、兼家にとっては、待望の外孫誕生であると同時に
冷泉にとっても、師貞と共に自己の皇統を嗣ぐ資格を持つ、第二皇子の降誕であったのです
この第二皇子は、居貞(おきさだ)と命名、時期を移さずに、親王宣下(しんのうせんげ)が下されたのです
さて、目出度く、皇子を出産した超子ですが、実は居貞を産む三年前に、自身出生の第一女たる光子内親王(こうしないしんのう)を儲けていました
因みに、冷泉院には、既に故人となっていた女御懐子との間に、宗子(そうし)・尊子(そんし)の二内親王が誕生していたので
父院にとって、光子内親王は第三皇女となりますね
その超子ですが、居貞出産の翌年には、第三皇子の為尊(ためたか)を、更にその四年後の天元(てんげん)四年(981)には
第四皇子の敦道(あつみち)を立て続けに出産
何と、この時点で兼家(右大臣に昇進)は、三親王と一内親王の外祖父になっていたのです
尚、敦道誕生の一年前には、円融に入内させていた兼家次女詮子(せんし:超子同母妹)が皇子懐仁(やすひと)を出産しており
兼家は冷泉皇統のみならず、円融皇統における外孫獲得にも成功していたのです
但し、皇統の嫡流が冷泉系である以上、兼家は冷泉皇統の三皇子達の後見を優先的に行うことは必然で、こうした兼家の
冷泉系重視の姿勢こそが…
当時抗争を繰り広げていた兄兼通や円融、更には懐仁(後の一条帝:いちじょうてい)の母となった詮子の反発を受けることになる訳です
さて、三親王・一内親王の母となった超子は、このまま何事もなく時を待てば…
皇位は、円融(円融系)→師貞・花山(冷泉系)を経て、居貞へと受け継がれ、我が子が晴れて東宮、更には帝となる姿を目の当たりにすることが出来たのですが…
(この時点で、皇子懐仁が誕生していたとは言え、円融皇統が一代限りの立場から脱却するかどうかは不透明でした)
運命の神様は、非情な運命を超子に与えたのです
この続きは次回とさせて頂きます