さてさて…
若干十七歳で即位した花山帝(かざんてい)ですが…
前回の記事でお話した通り、有力なミウチである外祖父(伊尹:これまさ)と国母(こくも)の懐子(かいし)は既にこの世になく治世当初からその政権基盤は脆弱でありました
懐子の兄弟達(花山から見て外伯叔父)も、その多くが若くして鬼籍に入っていたのですが…
幸いにも、伊尹五男である義懐(よしちか)が健在でした
支持基盤が心許ない花山にとって、この義懐こそが唯一頼りになるミウチになる訳で、甥である帝の引き立てを受けて義懐は急速な昇進を果していったのです
父伊尹亡き後から程なく、二人の兄である挙賢(たかかた)・義孝(よしたか)を相次いで失った義懐は、官位において、父の弟達(兼通・兼家)の子供達(即ち従兄弟)に大きく後れを取っており、天元(てんげん)五年(992)に漸く従四位下に叙位されていました
但し、姉懐子の同母弟であった義懐は、甥である東宮師貞(もろさだ。後の花山)の数少ない外戚として、天元二年(979)に東宮の家政機関である東宮坊(とうぐうぼう)の次官である、東宮(春宮)亮(とうぐうのすけ)に任命され、花山を支えていました
永観(えいかん)二年(984)正月、正四位下(しょしいげ)に昇叙したのですが、同年八月の花山践祚(天皇の位を嗣ぐこと)を
受けて、何と蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢されたのです
蔵人頭とは、天皇の秘書役に相当する蔵人(くろうど)の長官(定員二名)、同役には先帝円融院(えんゆういん)に引き続き在任していた、小野宮流実資(おののみやりゅうさねすけ)がいました
花山側から見れば、明敏・優秀さを評価されていた実資の留任を望むと共に、今一人の蔵人頭には自身が最も信頼し得る外叔父の義懐の就任を望んだ結果、異例の抜擢となったのでしょう
これだけでも、相当な出世と言えますが、義懐の昇進はそこで終わらなかったのです
同年九月には右近衛中将(うこんえのちゅうじょう)を兼帯、則ち頭中将(とうのちゅうじょう)となった義懐は、十月の花山即位により従三位(じゅさんみ)に位階を上げ、晴れて公卿(くぎょう)の仲間入りを果たしたのです
翌年の永観三年(985)九月には参議(さんぎ)に昇進したのを皮切りに、十一月には従二位(じゅにい)、年末には何と…
権中納言(ごんちゅうなごん)に昇進を果したのです
僅か、一年少しで、位階も官職も急速なペースで昇進を果したのですが、偏に花山外戚(外叔父)というミウチ関係が依り所で
あったのは明らかでした
唯一の外戚である義懐の政治的地位を上げることは、花山の権力基盤を強化するうえで必須の事項であったのですが、流石に二年に満たない間での昇進は、貴族社会で反発があったことは、否めなかったと考えられます
当時の関白は、前代の円融朝(えんゆうちょう)に引き続き、外戚関係のない小野宮頼忠(おののみやよりただ)でした
本来なら、花山の外戚に当たる公卿が摂関の座に就くことが順当だったのですが、唯一の適格者となる義懐は漸く権中納言になったばかりで、摂関有資格者たる大臣でもありませんでした
但し、(史実と異なり)このまま花山朝が続いたならば、義懐は大納言を経て右大臣・左大臣へと、更に官職を進めた筈で、
何れは摂関の座に就いた可能性は結構高かったと思われます
さて…
当時二十八歳、新進気鋭の公卿であった義懐は、花山帝の乳母子(めのとご)である藤原惟茂(ふじわらのこれしげ)と共に、
革新的な政策を立案しているのですが…
その政策の多くは、当時としては余りにも急進的に過ぎたため、円融朝以来の大臣である
➀太政大臣頼忠(関白兼任)
②左大臣源雅信(みなもとのまさのぶ)
③右大臣藤原兼家(ふじわらのかねいえ)
彼等から猛反発を買ってしまい、即位二年も経過しないうちに、花山帝の政は停滞をきたすに至ったのです
こうした状況の中、右大臣兼家は、外孫である東宮懐仁親王(やすひとしんのう)の一刻も早い即位を実現を期し
花山を退位させるべく、暗躍を始めるのです
但し、花山帝も兼家サイトの動きを察知しており、直ちに対抗策を講じたのです
それは…
義懐と連携して、自身を囲繞する新たなミウチ関係の構築であったのです
続きは次回に致します