さてさて…
前回の円融vs兼家のバトルの続きです
娘の詮子(せんこ)が中宮の座を逸したことを知った兼家は激怒
何と内裏(だいり)から、彼女とその出生の皇子懐仁(やすひと)を退去させたうえで、自らの邸第である東三条殿(ひがしさんじょうどの)に引き取ったのです
更に、関白頼忠(よりただ)の娘遵子(じゅんし)が中宮に任じられたことを不服として、兼家は朝廷への出仕を停止してしまったのです
父娘揃ってのストライキという、前代未聞の所業に出たことで、円融帝は怒りを禁じ得なかったと思われます
但し、円融にとって不利だったのは、一粒種の懐仁が兼家の掌中にあったことで、云わば人質を取られた様な状況だったのです
外孫を擁して、円融に圧力を掛ける兼家の手法は、臣下としてはあるまじき行動であったのですが…
水面下で行われたと思われる、解決に向けた交渉は進展せず、事態は混迷の度合いを色濃くしていたのです
その様な状況下で、帝の居住する内裏が二度に亘って焼失するという事件が勃発したのです
実は、後代の一条帝(いちじょうてい。懐仁)や三条帝(さんじょうてい)の御世(みよ)でも、内裏が焼亡、それも一度ならず
二度・三度もという、実に由々しき事態が惹起されたのですが、こうした内裏の連続火災の背景として…
当時の政局が不安定、若しくは、帝と執政(しっせい)との不協和音があったのです
特に、『光る君へ』でも何れ描かれると思われますが、藤原道長(ふじわらのみちなが)と三条帝の確執はよく知られています
帝の眼病を理由に退位を求める道長に対して、三条帝がこれを拒否するという、意地の張り合いにも似た押し問答が長期化…
両者の対立が深まる中、二度に亘って内裏が焼亡
相次ぐ火災について道長は、『三条帝の徳が足りない故に、この様な不祥事が起きるのだ』と三条を追及
他の公卿達も道長に追随したため、遂に三条帝は退位に追い込まれるという顛末を辿ったのです
これよりも時期は遡るのですが、円融朝の火災頻発も、政治闘争が大きな原因であったかと思われます
そうなると、火災は自然発生ではなく、不審火即ち放火ということになる訳ですが、放火かどうかの穿鑿(せんさく)は行われず、結局真偽は有耶無耶に終わったのです
さてさて…
二度の内裏焼亡に遭った円融帝ですが、当然ながら、他の邸第を仮の御所(行宮あんぐう)に定める必要がありました
焼け出された際、円融は関白頼忠邸や、親王時代から居住していた兼家亡兄の兼通(かねみち)の堀河殿(ほりかわどの)を
里内裏(さとだいり)として使用する一方で…
兼家の支援を受けることは断固拒んだのです
大変な状況であるにも拘わらず、円融帝も相当強情であると言えるのですが、対する兼家(詮子もですが…)も負けず劣らず
強情で…
どちらかが先に折れない限り、関係修復は難しかったのです
結局、先に譲歩したのは、主上(しゅじょう)たる円融の方で、予てから退位を求めていた兼家の意を容れる一方で
自身唯一の皇子である懐仁を皇太子に立てることを約束させたのです
当然ながら、兼家にとっても、そして詮子にとっても、懐仁立太子は歓迎すべき出来事であり、これを拒む選択肢はなかったのです
尚、円融退位後の次の帝ですが、冷泉帝の第一皇子である、東宮師貞親王(もろさだしんのう)の即位が既定路線となっており
永観(えいかん)二年(984)に、円融譲位と師貞践祚が挙行されたのです
在位十六年に及んだ円融ですが、その譲位時、彼は未だ二十六歳に過ぎませんでした
身体共に、まだ天皇位に堪え得ることは可能だったと思われますが、円融にとっての最優先命題は…
自身に貼られた、『一代主』(いちだいしゅ)、中継ぎの帝というレッテルを剥がすことであったのです
不本意ではありますが、これ以上兼家との諍いを長期化させては…
➀兼家は外孫懐仁がいる円融皇統を廃絶させる
②冷泉皇統の今一人の外孫である居貞(いやさだ。後の三条帝)を新帝師貞の東宮に擁立する
上記の様な行動に出る可能性が否定出来なかったため、円融は懐仁を師貞の東宮に立てることで…
自身の系統が帝位を継承する資格があることを、兼家を始め貴族社会に承認させることに成功したのです
自らの退位を引き換えにして、円融皇統の格上を図るという、思い切った決断を行った円融ですが、予想外の長い在位期間の間に、海千山千の宮廷政治家の域に達していた兼家とも、ほぼ互角に渡り合う程の力量を有していたのです
『一代主』からの脱却という、大きな成果を得た円融ですが、依然としてその皇統は嫡流である冷泉皇統の傍流であることに変わりなく、太上天皇(たいじょうてんのう)となった円融の闘いは、なお暫く継続することとなるのです
次回は新帝師貞こと、花山帝(かざんてい)について、お話致します