さてさて…
ブログの時間軸が行ったり来たりして、皆様が混乱してしまっているのではないか
聊か、心配しておりますが…
本日もよろしくお願い申し上げます
先日のブログ記事の内容で、補足させて頂きたいことがあります
円融帝(えんゆうてい)の中宮(ちゅうぐう)の座を巡り、遵子(じゅんし)と詮子(せんし)が競望(きょうもう)した
という話をさせて頂いたのですが、実は
円融帝の中宮は既に存在していたのです
但し、存在していた、則ち過去形で、正しくは空席と言った方が良いと思います
円融帝の最初の中宮は、右大臣兼家(かねいえ)の同母兄の関白藤原兼通(ふじわらのかねみち)の娘媓子(こうし)でした
兼通・兼家兄弟の長兄で、円融帝の摂政であった伊尹(これまさ)が、天禄(てんろく)三年(972)に病死後
兼通と兼家兄弟が後任摂政の座を争ったのですが、軍配は兼通に上がりました
腫れて政権担当者となった兼通は、翌天禄四年二月に娘媓子(こうし)を円融帝に入内同年七月に彼女は中宮に立てられたのです
兄に先を越された兼家は、対抗策として、次女詮子を円融帝後宮に入内させようと目論んだのですが、兼通はこれを妨害
この段階での詮子入内は見送られたのです
兼通・兼家兄弟の確執は更に続き、兄は弟の官位昇進を滞らせる等、様々な妨害を行ったのですが…
貞元(じょうげん)元年(977)、重病となった兼通は、自らが主宰した最後の除目(じもく。じんじ)で、関白の座を従兄弟の
頼忠(よりただ)に譲った後、世を去ったのです
因みに、兼通はこの除目で、兼家の帯びていた右大将(うだいしょう)を剥奪するという、降格人事を行ったのです
散々兄に辛酸を舐めさせれた兼家ですが、兄の死後の天元(てんげん)元年(978)右大臣に昇進
何とか復権を果しました
実は、『光る君へ』は、この兼通が亡くなった直後からスタートしているのですが、藤原北家の摂関を巡る争いの中でも
最も熾烈を極めたとされる、兼通vs兼家の抗争を少しだけでも採り上げて欲しかった
と個人的には思っています
さて、円融帝の中宮となっていた媓子は、最大の後見(うしろみ)を失ってしまいました
彼女には同母弟の朝光(あさてる)と、異母兄である顕光(あきみつ)がいて、共に父兼通の引き立てにより
権中納言(ごんちゅうなごん)に昇進していたのですが、父の死により、彼等の昇進も停まり、有力な後見とはなり得ない状況でした
ところで、彼女は円融より十二歳も年長であったのですが、帝との仲は良好で大変睦まじい夫婦であったみたいです
但し、残念ながら皇子を儲けるには至らず、大黒柱を失った兼通一家は、呆気なく政権担当者の地位から滑り落ちることに
なったのです
そんな逆風下の天元元年(978)、先述の通り、頼忠が遵子、兼家が詮子を入内させたため
円融帝唯一の后であった媓子の地位は、俄かに脅かされようとしていました
こうした事柄の連続が、媓子の身体を蝕んでいたのか…
彼女はその翌年の天元二年(979)、三十三歳で崩御してしまいました
そして、媓子の死で空席となった中宮の座を巡り、遵子(頼忠)vs詮子(兼家)のバトルが始まることとなったのです
前回の記事では、何故遵子と詮子が中宮の地位を競うことになったのか
この理由について、きちんと説明をしていませんでした
今回改めて、その辺りの事情を説明させて頂きました
本日はここまでに致します