さてさて…
『光る君へ』も昨日で三回目の放送が終了致しました
円融帝(えんゆうてい)の後宮に入内した二人の女御(にょうご)
➀関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)藤原頼忠(ふじわらのよりただ)の娘、遵子(じゅんし)
②右大臣藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の娘、詮子(せんし)
共に、藤原北家の小野宮流(おののみやりゅう)と九条流(くじょうりゅう)の期待を担っての入内であり、どちらが先に円融の
皇子を産むことが出来るのか
宮廷社会の衆目は、この一点に絞られていました
この勝敗の行方は、天元(てんげん)三年(980)に、詮子が円融第一皇子懐仁(やすひと)を産んだことで、九条流に軍配が上がったのですが…
兼家の勢力拡大を望まなかった円融は、自身唯一の皇子生母たる詮子を差し置き、未だ子を産んでいない遵子を中宮に冊立したのです
格から考えれば、遵子は関白太政大臣頼忠の娘、対する詮子は右大臣兼家の娘であり、太政官の序列のうえでは、関白娘たる遵子が中宮になるのが順当であるのですが…
円融皇統ただ一人の皇子懐仁の生母である詮子もまた、十分に中宮たる資格を有していました
普通に考えるならば、家柄は全くの同格であるならば、第一皇子の生母である詮子の方が中宮の座に就くことになるのですが、兼家への不信感を拭いきれない円融は、彼女に中宮の座に与えず、頼忠娘遵子が中宮となったのです
何故、円融は兼家に対する不信感を抱き続けたのでしょうか
それは、兼家が後宮政策において両面作戦を展開していたことに尽きると思われます
この二方面作戦については、『光る君へ』ではこれまで取り上げられていませんので、少し説明させて頂きます
兼家は正室時姫(ときひめ)との間に…
➀長男道隆(みちたか)
②長女超子(ちょうし)
③次男道兼(みちかね)
④次女詮子(せんし)
⑤三男道長(みちなが) (本当は五男)
上記の三男二女を儲けていました
多くの妻妾がいたことで知られる兼家ですが、彼女達の殆んどが、受領(ずりょう)クラスの諸大夫(しょたいふ)の娘で…
誰が正妻の座を射止めるのか
混沌とした情勢でした
それでは、何故時姫が正妻になったのかと言えば、他の妻妾と比べて、多くの子供を儲けたことであったと言えます
しかも、彼女は超子・詮子の二女を産んでいたのですが、この二女こそが、帝(親王)の後宮に入内させる機会を窺っていた
兼家の大切な持ち駒(言い方が悪くて済みません…)であったのです
天暦(てんりゃく)八年(854)頃の生まれとされる超子は、安和(あんな)元年(968)、即位したばかりの冷泉帝(れいぜいてい)に入内しました
この前年に父帝村上(むらかみ)が崩御、直ちに憲平(のりひら)こと冷泉が践祚(せんそ)したのですが、気の病が常態化していた彼が長く皇位を保つことが困難であったのは、誰に目にも明らかでした
加えて、東宮時代に後宮へ入った妃達の中で、皇子を産んだものはなく、嫡流とされた冷泉の皇統を受け継ぐ直系の皇子誕生が待ち望まれていました
しかし、それを見ぬうちに、村上帝が死の床に臥せたため、近い将来の冷泉の皇子誕生までの中継ぎの帝を選ぶ必要が生じ、その候補者が…
冷泉同母弟の為平(ためひら)・守平(もりひら)の二人の親王でした
冷泉践祚後の皇太子(中継ぎの次期帝)の選定は、政治抗争の末に、守平親王が立てられることになったのですが、一連の政争が続くドサクサの中で…
兼家は超子を冷泉帝に入内させたのです
この段階で、まだ冷泉帝に皇子が生まれていないことから、兼家は…
『自分にも、まだ冷泉の皇統を継承する皇子の外祖父になれる可能性がある』
と判断したうえで、長女を入内させたのですが、既にこの時点で、彼の長兄伊尹(これまさ)の娘懐子(かいし)が冷泉との三人目の子供を懐妊していました
『懐子よ此度こそ皇子を産んでくれ
』
父親である伊尹はまさに切実な願いを懐いていたのですが、そうした微妙な局面の中で、兼家は敢えて超子入内に踏み切ったのです
この超子入内が、兼家は初めて敢行した後宮政策であったのですが、こうした政治的な嗅覚の鋭さが
後年における、彼の成功に繋がるのです
結局の所、超子が入内した同じ年の安和元年十一月、懐子が冷泉待望の第一皇子である師貞(もろさだ)を出産
かくして、自身の後継者を得た冷泉が退位する目途が立ったのです
(但しそれは、このすぐ後に即位することになる、守平こと円融が一代限りであることが確定した時でもあったのです)
ところで
入内させた超子が皇子を産む前に、懐子出生の師貞(のちの花山帝〈かざんてい〉〉が誕生したのですが、彼が送り込んだ愛娘は女御に擁立され、翌年に譲位した冷泉院後宮の中心的な存在になりました
そして、入内から八年後…
天延(てんえん)四年(976)、彼女は冷泉第二皇子の居貞(おきさだ)を出産したのです
冷泉退位後の皇子であり、尚且つ、異母兄師貞が円融帝の東宮に立てられていたのですが、兼家は嫡流である冷泉皇統の外孫の皇子を擁することに成功したのです
因みに、次女詮子が円融帝の後宮に入内したのは、居貞誕生から二年後、更に懐仁誕生はその二年後である訳で
則ち兼家は…
冷泉皇統への後宮政策を完了させた(外孫居貞を擁する)うえで、円融皇統への後宮政策を行っていたのです
まさに、政界の寝業師たる兼家の面目躍如であったのですが、こうした彼の手法は
彼の子供達である、道隆(みちたか)・道長(みちなが)兄弟も手本にすることになるのです
さて…
皇位が冷泉・円融の何れかに移っても、外祖父摂関の座を手中に出来る
こうした兼家の二枚腰的な姿勢が、彼に対する円融帝の不信感を増幅させたことは、容易に理解できる訳で…
それが、懐仁生母たる詮子を中宮に昇進させなかったことに繋がったのでしょう
気の毒なのは、確実と思われた中宮の座を逸した詮子自身であり、右大臣家の娘たる彼女のプライドは…
ズタズタに引き裂かれたと思われます
(詮子以上に)悲憤慷慨したのは、父兼家で、怒りの収まらなかった彼は…
娘と共々、東三条殿(ひがしさんじょうどの。詮子の里邸にもなっていた)に引き籠ってしまったのです
➀詮子は後宮を開けて無断で里帰り
②兼家に至っては、宮中への出仕も止める始末で
父娘揃って、今回の円融の沙汰に抗議の意思を示したのです
この事態は円融にとっても、想定外だったみたいで、帝は里邸に閉居したままの詮子に後宮に戻る様、度々召喚(和歌でも送ったのかもしれませんが…)したのですが、彼女が応じることはなかったのです
『光る君へ』では、円融と詮子の関係が、険悪さを増しているのですが、兼家と円融との政治的パワーゲームが…
この夫婦を、事実上破局へと追い込んでしまったのかもしれませんね
(兼家もかなり強引ですが、円融の方も、それに負けず劣らず、強引ですね)
この話の続きは、後日改めて