さてさて…
円融帝(えんゆうてい)こと、守平親王(もりひらしんのう)のお話の続きです
守平親王(即位前の名前)は、村上帝(むらかみてい)とその中宮である藤原安子(ふじわらのあんし)出生の三番目の皇子として
天徳(てんとく)三年(959)に誕生しました
安子の父親は、藤原北家九条流(くじょうりゅう)の右大臣師輔(もろすけ)でした
村上帝に入内した彼女は、三人の親王と三人の内親王(ないしんのう)を産み、父師輔の期待に、最高の結果で応えたのです
因みに、師輔の兄である小野宮流(おののみやりゅう)左大臣実頼もまた、娘述子(じゅっし)を村上帝へ入内させていたのですが…
運悪く出産の時に疱瘡に罹患してしまい、結局母子共に命を失うという悲しい結末を迎えていました
(ここでもし、述子が皇子を出産していれば、兄実頼が弟師輔を抑えて、将来の摂関の座を手中にする筈だったのですが…)
悲運の兄と比べて、師輔は娘安子が子宝に恵まれ、その第一皇子である憲平(のりひら)親王が生後まもなく皇太子に立てられ、
外祖父即位の暁には、師輔摂関就任は確実視されていたのですが…
天徳四年(960)師輔は病に倒れ、憲平の即位を見ることなく、亡くなってしまったのです
但し、安子同母兄弟である、伊尹(これまさ)・兼通(かみみち)・兼家(かねいえ)達が、安子と皇太子憲平を後見
安子自身は応和(おうわ)四年(964)に末娘である選子内親王(せんしないしんのう)出産後に亡くなったのですが
憲平後見体制に揺らぎはなかったのです
舅と中宮に先立たれた村上帝は、自身の健康状態に不安があったのか憲平親王即位後の次の皇太子の人選を考え始めました
とうのも、安子死去時点で、八歳になっていた憲平が心を病んでいたことが明らかになったからです…
本来、心の病を抱えているならば、激務である帝の職務を遂行するに適さなかったと思われますが…
何故か、村上帝は憲平親王の皇太子を廃することはしなかったのです
ところで、安子出生の皇子は、天暦(てんりゃく)四年(950)生まれの憲平の他に…
➀天暦六年(952)生まれの、為平(ためひら)親王
②冒頭に紹介した、天徳三年(959)生まれの守平親王
上記二名がおり、兄に代わって皇太子に立てることも可能だったのですが、村上帝は嫡流である憲仁の血統による皇位相承を望んだのです
応和(おうわ)三年(963)に、先帝で村上の同母兄の朱雀院(すざくいん)の忘れ形見である、昌子内親王(まさこないしんのう)が皇太子憲平に入侍したのですが、村上帝は兄朱雀の血統を自身の血統に融合させることで、両統を一本化させる皇子誕生を望んでいたのです
但し、昌子内親王は一人では心許なかったのか
昌子入侍と同じ年に、九条流の当主である伊尹の娘である懐子(かいし)もまた、憲平後宮に入ったのです
但し、村上帝は憲平の皇子(即ち孫皇子)誕生を見ることなく、康保(こうほ)四年(967)に崩御してしまったのです
生前に孫皇子の誕生を見ることで、将来における憲平血統による皇位継承を確実にしたかった村上でしたが…
病が重篤になった段階で、即位が既定路線となっていた憲平親王の後の皇太子を誰にするか
この問題が、いよいよ待ったなしの状況となってしまったのです
憲法即位後に後宮に入ってる妃の誰かが、皇子を産むことを想定しても…
当然ながら、その皇子は乳呑児に過ぎず、とても皇太子に立てることは不可能でした
死の床で、村上帝が考え付いた、新たな皇位継承の青写真は…
新帝となる憲平が不慮の事態に陥った際、その代役を務める帝候補者を選び、これを中継ぎとして即位させる
というものだったのです
但し、代役はあくまでも代役に過ぎず、退位して先帝となっている憲平の皇子が誕生若しくは成長した段階で…
代役の帝は皇位を退き、彼の皇子達が皇位に就く可能性は、未来永劫に閉ざされることになったのです
即ち、代役は一代限りの帝になる訳で、あくまでも村上は、嫡流である憲平親王系統へ皇位を繋げたかったのです
では、数多居た村上の皇子の中で…
中継ぎで尚且つ、一代限りの帝という、損な役回りを務める皇子を誰にするのか
ということになったのですが
その候補者は、何れも亡き中宮安子出生の同母弟である、為平と守平の皇子二人に絞られたのです
両者共に、師輔息子の三兄弟の外甥に当たり、九条流としてはどちらでも異存はなかった
と思われたですが…
実は必ずしも、そうではなかったのです
続きは次回に致します