さてさて…
昨夜、『光る君へ』第二回放送を視ての投稿であります
円融帝(えんゆうてい)の許に入内した、右大臣藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の娘詮子(あきこ・せんし)は
帝の第一皇子である懐仁(かねひと)を産んだのですが…
円融は空席となっていた中宮(ちゅうぐう)に
懐仁生母の詮子ではなく、関白藤原頼忠(かんぱくふじわらのよりただ)の娘である遵子(のぶこ・じゅんし)を立てたのです
詮子と遵子は、同じ貞元三年(978)に相次いで入内、何れも女御(にょうご)に任ぜられたのですが…
実はこれ以前、円融帝には兼家同母兄の関白兼通(かねみち)の娘媓子(こうし)が入内、中宮に冊立されていました
円融より十二歳も年長であった彼女ですが、残念ながら皇子を儲けることは出来ませんでした
貞元二年(977)に父兼通が病没したのですが、死に臨んで兼通は
予てより犬猿の仲であった弟兼家の関白就任を阻止すべく、重態をおして参内
➀後任の関白には、従兄弟の小野宮流(おののみやりゅう)右大臣の頼忠(よりただ)を指名
②兼家の右近衛大将(うこんえのたいしょう)を罷免して、閑職である治部卿(じぶのきょう)に左遷
という最後の除目(じもく。人事会議)を主宰した直後に亡くなったのです
兼家は詮子を円融帝に嫁がせる以前、その姉である超子(ちょうし)を、先帝で円融実兄である冷泉院(れいぜいいん)に入内
させており、彼女は冷泉第二皇子である居貞(いやさだ)親王を産んでいました
強かな兼家は、皇統が冷泉・円融の二つに分裂する状況を鑑み、どちらの皇統にも娘を入内させ、何れも外孫に当たる親王を儲けさせていました
まさに、宮廷社会の寝技師とでもいうべき、兼家の辣腕ぶりだったのですが、そうした彼の両睨み路線に対して…
他ならぬ円融自身が不快感を懐いていたと思われます
さて、ここから話が少しばかり、遡りますが…
かって、冷泉・円融の父親である村上帝(むらかみてい)は、その生前…
➀我が亡き後、皇位は嫡系第一子たる冷泉に継がせる
②以後、冷泉の系統に皇位を相承させる
という意向を表明していました
但し、生後すぐに皇太子に擁立した冷泉(当時は憲平(のりひら)親王)が成長するにつれて…
精神面で不安定な症状を頻発する様になったため、当初の皇位継承の関する方針を変更することにしたのです
それは…
➀我が亡き後は、予定通り東宮(とうぐう)憲平が即位する(冷泉帝)
②即位した冷泉が皇子を儲けたら、彼の体調とその皇子の成長を睨みながら、近いうちにその出生の皇子を即位させる
③冷泉皇子がまだ成長する以前に、冷泉に不測の事態が起こったならば、中継ぎとして、皇位を冷泉同母弟に継がせる
④冷泉皇子が皇位に堪え得る年齢に達したならば、皇位を冷泉皇子が継承する
⑤以後の皇統は、冷泉系が引き継ぐことにして、中継ぎの帝は一代限りとして、その系統に皇位を伝えない
概ね上記の通りでした
実際は村上帝崩御後、方針通りに冷泉が即位加えて、東宮時代に入侍(じゅうじ)していた藤原伊尹(ふじわらのこれまさ)娘の懐子(かいし)が皇子師貞(もろさだ)を出産
冷泉待望の皇子誕生を受けて、冷泉帝は退位、皇位は同母弟の守平(もりひら)親王に譲られたのです(円融帝)
(守平が東宮に擁立・更に即位に至るまでの事情は、機会を改めてお話致します)
さて、こうして即位することになった円融帝ですが…
彼自身は、父村上帝が一方的に決めた…
即ち、自分は一代限りの中継ぎの帝であり、やがて生まれて来る自分の子供達は皇位資格から除外させる
という皇位継承に関する約束事を守る気持ち等はなかったのです
元服を終わらせて、晴れて成人となった円融は、自分の系統に何とか皇統を伝えたいという思いを強くしたのですが…
但し、その実現は茨の道であったのです
続きは次回に致します