家康vs勝頼(勝頼と御館の乱) | タケ海舟の歴史事件帳

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さてさて…

 

天正六年(1578)に急死した、上杉謙信後継者争いに端を発した、御館(おたて)の乱について注意

 

武田勝頼は、甲相同盟(こうそうどうめい)のパートナーである、北条氏政(ほうじょううじまさ)の要請を受け耳

 

後継者争い当事者の一人である、上杉景虎(うえすぎかげとら。氏政異母弟)を支援すべく、自ら大軍率いて越後国内に進出しましたOK

 

景虎のライバルである上杉景勝(うえすぎかげかつ)は、謙信甥にあたり、上杉家の譜代家臣の多くは、血縁の近さから景勝を奉じていました耳

 

養父謙信に愛されていた景虎に心を寄せる家臣達も、決して少なくなかったのですが、上杉とは関東支配を巡って宿敵であった

北条家出身の景虎には、越後国内における地盤がなく、必然的に実家である北条家や、異母妹(北条夫人)が嫁いでいた武田家の支援こそが頼みの綱でありましたポスト

 

領外勢力の支援を得て、内乱を優位に進めたいと目論んだ、景虎陣営の作戦は、当初は思惑通りに進み、戦局は景虎優勢に推移していました目

 

さて、氏政の要請を受けて、越後国内に入った勝頼は、上杉景勝が本拠としていた春日山城(かすがやまじょう)近くに布陣グッド!

 

同じく春日山城付近に御館(おたて)に立て籠もる上杉景虎と共に、春日山攻めを始めるのか?

 

と思われたのですが、勝頼は何故か城攻めをせず、寧ろ両陣営に和議を勧告したのですNEW

 

この予想外の勝頼に動きに、景虎は面食らったと思われますが、勝頼の胸中にはある疑問が消えないままになっていたのですガーン

 

甲相同盟の方針を守るならば、当然ながら景虎を助けて景勝を討つべきだったのですが、ここで景勝が倒されて、景虎が上杉家の当主になったら何か起きるのか? そして、武田家の立場はどうなるのか?

 

勝頼は考えを巡らしていたと思われますネイル

 

熟慮の末に勝頼が出した結論が、両陣営への和睦勧告でしたパー

 

①景虎が景勝との抗争に勝ち、上杉家の当主になった場合むっ

 

②越後・越中・能登・北信濃という広い領地を有する上杉家は、彼の実家である北条家の分家的な存在になってしまう耳

 

③そうなると、甲斐・南中信濃・駿河・西上野・東遠江等を領する武田家は、外交・軍事的に苦しい立場に追い込まれてしまう叫び

 

④対等である甲相同盟の均衡は破られ、今後は北条が主、武田が従という関係に変じてしまう危険性が極めて高いNG

 

勝頼は上記の様に考えたのでしょう目

 

それ故、同盟に則り、越後まで自身が出馬したものの、景虎の完全勝利という形ではなく景勝と和睦させることで、越後国内の鎮静化(即ち景勝・景虎共存の道)を図ったと思われますOK

 

端的に言えば、景虎が上杉家の当主になっても、武田が得るべきものは少ない!という結論に至ったのです耳

 

こうした、勝頼の思惑を悟り、素早く動いたのが

 

もう一方の後継者候補である、上杉景勝でしたFREE

 

武田・北条両家の軍勢が景虎に味方すれば、十中八九自身に勝ち目のないことは、景勝が一番認識していました爆弾

 

それ故、当面における景勝の戦略は、武田・北条のうち、少なくとも武田を景虎側に付かせない、最悪でも中立を維持させる

いう現実重視であり、事実その目的達成のための手段を選びませんでした目

 

その証左として、景勝は武田の越後進出直前より、和平交渉を持ち掛けており、勝頼が和議に応じたならば、北信濃や上野国の上杉領の割譲莫大な黄金の献金を約束したのですショック!

 

内乱に勝つことを第一義とする、なり振りかまわぬ景勝の姿勢が窺われるのですが、これを受け取った勝頼陣営も…

 

本来真っ先に越後に軍を進めなければならない北条家が、一向に兵を北上させないグー(甲相同盟が機能しないむかっ)

 

②遠江国方面において、徳川家康の軍事活動が顕著化、このままこれを放置する訳にはいかない叫び

 

という、武田家の事情もあり、なるべ越後内訌への介入は短期で済ませたかったのですショック!

 

前述した通り、景虎の勝利を望んでいなかった勝頼は、寧ろ景勝が勝利した方が、武田には有益であると知悉していたと思われますが、未だ戦局の帰趨が不明確な以上、景虎を救援する姿勢を見せなければならず、事実自ら兵を率いて参戦したのですアップ

 

天正七年七月、勝頼は景勝側と和睦、同時に中立の姿勢を崩さぬまま、景虎とも交渉して、両者間を調停、和議締結に漕ぎつけたのです耳

 

勝頼は、和議が遵守されるのを見届けて後、越後から撤兵しようしたのですが、同年八月に家康が駿河田中城(たなかじょう)を攻撃したという知らせを受けたため、和議の詰めを行わないまま、兵を退いたのです注意

 

既に、家康の勢力が遠江全域のみならず、武田領である駿河にも浸食していたことの証左であったのですが、以後勝頼が再度越後へ出兵することはなく、寧ろ景勝との同盟締結に舵を切ったのです目

 

この方針転換の背景には、先に景勝側から提示された黄金の献金や領土割譲の履行が確実視されたこともあったのですが…

 

景勝が上杉の当主となることが、武田にとっては安全であり、そればかりか…

 

信玄vs謙信の宿敵同士という関係から、勝頼⇔景勝の同盟関係締結こそが、今後の対織田若しくは対北条を見据えたうえで、外交上有利とであるという判断に至ったのでしょう合格

 

この勝頼の決断は、決して間違ってはいなかったのですが、御館の乱以降の情勢が勝頼にとって、不利な材料が相次ぎ結局武田家は滅亡する結果を惹起してしまうのです叫び

 

こうして、景勝との同盟(甲越同盟)を新たな外交方針とした勝頼は、内乱を優勢に進めつつあった景勝との絆を深めることに着手ビックリマーク

 

天正七年(1579)七月には、勝頼異母妹菊姫(きくひめ。信玄五女)景勝正室として嫁がせたのです合格

 

義弟となった景勝からは、莫大な贈り物が勝頼に贈られたのですが、そうしたことから見れば、この同盟は対等ではなく武田主導によるものであったことは明確ですねグッド!

 

さてさて…

 

勝頼が中立さらには、景勝との同盟を選択したことで、景虎陣営は頗る不利な情勢に追い込まれました注意

 

この頃には、武田の方針転換を悟った北条氏政が、本格的に越後出兵を開始したのですが、雪等の影響により、戦局好転までには至らず、結局越後国衆の大方を味方に取り込んだ景勝側の攻勢の前に、景虎は遂に自刃に追い込まれたのです叫び

 

かくして、越後国内を二分した御館の乱は、景勝の勝利に終わったのですが、弟を救えなかった北条氏政の怒りは…

 

当然のことながら、甲相同盟を事実上破棄した勝頼に向けられることになるのですNG

 

そして、この次の氏政の行動が…

 

勝頼を追い込むことになってしまうのですショック!

 

続きは次回に致しますゲロー