さてさて
『どうする家康』では、先週の放送で、小牧・長久手の戦が取り上げられました
秀吉の裏をかいた家康の見事な作戦と、その軍略を支える徳川四天王の活躍ぶりが存分に描かれていましたね
そして、今週放送では遂に…
酒井忠次(さかいただつぐ)と共に、家康を支え続けていた、石川数正(いしかわかずまさ)が徳川家を出奔することになります
数正の徳川家退去は、家康は勿論、他の家臣達にも大きな衝撃であったことは、言うまでもないのですが…
特に、数正と共に、家中の両職(家老)として家康を支えていた忠次の心中も穏やかでなかったと思われます
ところで、数正出奔は、天正十三年(1585)十一月末のことだったのですが、遺された今一人の両職たる忠次は、尚数年は徳川家中筆頭として活躍を続けたものの
盟友退去後から三年後の、天正十六年(1588)十月に、老齢を理由に家督を嫡男家次(いえつぐ)に譲って、第一線を退きました
この当時、忠次は齢六十二歳、既に老境に差し掛かっていたことは否めませんが、これ以前より、眼疾により殆ど視力がなくなってしまったことが、隠居理由だと思われます
十五歳年少の主君家康も、この時点で四十七歳という、最も脂が乗り切った頃を迎えており、主君若年より補佐を続けていた忠次の役割は終わりを迎えていたのかもしれません
そして、四天王筆頭の忠次の引退を以って、徳川家中は
①本多忠勝(ほんだただかつ)
②榊原康政(さかきばらやすまさ)
③井伊直政(いいなおまさ)
の徳川三傑(とくがわさんけつ)全盛の時代へと移り変わります
因みに、忠次と忠勝・康政・直政で徳川四天王だったのではと思われる方も多いと思われますが…
四人に年齢構成を見ますと、忠次にも家康よりも年長(十五歳)であり、他の三人は、忠勝・康政が家康より七年年少、直政に至っては二十年程年少であり、忠次一人が相当年長であったので、忠次以外の三人については、三傑という別の呼称を用いた訳です
さて、現役末期の忠次ですが、天正十四年(1586)、徳川第一の重臣として、朝廷(秀吉の推挙)より従四位下左衛門督(じゅしいげさえもんのかみ)に任官しています
それまで忠次は、左衛門尉(さえもんのじょう)を通称としており、これは朝廷の武官職である衛門府(えもんふ)の三等官であったのですが、正式に朝廷から任官された訳ではなく、あくまでも私称であったのです
それが、今回正式に朝廷から任官を受け、しかも左衛門尉よりも二階級格上の左衛門督に任命されたことは、忠次にとってこの上ない栄誉であったと言えます
或る意味、隠居を目前にしていた忠次に報いるべく、家康が秀吉に(他の家臣も同時期に任官しています)任官申請を行ったのかもしれません
さて、天正十六年に、正妻碓井姫(うすひひめ)出生の嫡男家次(家康従兄弟)に家督を譲った忠次ですが、いつの頃かは不明ですが、天正十八年の家康の関東移封には同行せず、秀吉から拝領していた京都桜井(さくらい)の屋敷にて、老後の養うことになりました
既に、隠居の身であったので、関東に行く必要はなかったのですが、何故京都で晩年を過ごすことになったのか
その辺りの事情は不明です
加えて、忠次正妻の碓氷姫は、夫と一緒に京都には住まず、息子家次と共に、息子が新たに領地として与えられた、下総国臼井(しもふさうすい)に移住しており、何故『共に白髪の生えるまで』の諺通りに老後同居をしなかった理由も詳らかではありません
因みに、この臼井が碓井になった理由も不明でありますが、彼女の名前が、この地名から採られていることは、確実だと言えます
尚、都で老後を養った忠次ですが、既に殆ど目が見えなかったという事情もあり、彼の周囲には世話をする女性が何人も仕えていたみたいで、何とその一人に忠次は、末子忠知(ただとも)という子供を産ませているのです
既に六十を半ば超えた時点で、子を挙げるとは、まさに『老いて益々盛んなり』を地で行っていたと思われるのですが、昔の人は結構元気だったみたいですね
尚、忠次は晩年、ずっと京都にいたのかと言えば、決してそうではなかったみたいで、第一次朝鮮出兵である文禄の役(ぶんろくのえき)の際には、秀吉に呼ばれて肥前名護屋(ひぜんなごや)の陣を訪れたとか
息子や妻が住んでいる臼井の地にも滞在していたことが…
家康家臣である深溝松平家忠(ふこうずまつだいらいえただ)の『家忠日記』(いえただにっき)に記載されています
老いて、目が見えなくなったとは言え、歴戦の名将たる忠次の名声は、なおも健在であったことが垣間見れる訳で、豊臣政権では大名は在京が原則であったこともあり、家康は度々忠次を、隠宅の地に訪ねたと思われます
そして、忠次も自由な立場から、家康・秀吉との間を円滑化に努めたのかもしれませんね
この点では、石川数正も同じだったかもしれませんが…
こうして意義深い晩年を過ごしたかと思われる忠次は
慶長元年(1596)十月二十八日、京都桜井の屋敷にて、七十年の生涯を閉じたのです
尚、愛妻の碓氷姫ですが、夫から後れること十七年の慶長十七年(1613)に亡くなっています
生年不詳ながら、享禄二年(1529)生年説に従えば、八十四~五歳が享年になりますね
因みに、忠次の墓所は、徳川将軍家とも所縁のある京都知恩院(ちおいん)の塔頭(たっちゅう)である先求院(せんぐいん)でありますが、残念ながら墓所の一般公開はされていないとのことです
先に私が訪れた、安城歴史博物館の酒井氏特別展では、忠次の墓の隣に碓氷姫の墓が並んでいる写真が展示されていました
夫婦仲良く同じ場所で永眠しているのかと思ったのですが、碓井姫の墓所は三河法蔵寺(ほうぞうじ)、出羽庄内(しょうない)の大督寺(だいとくじ)にもあり、果たして碓氷姫の遺骨がどこに埋葬されているのか詳しくはわかりません
また余談ながら、忠次後の酒井左衛門尉家ですが、徳川幕府創設後、家次が臼井から上野国高崎(たかさき)から越後高田(たかだ)に十万石で加増移封され、さらにその子である忠勝(ただかつ)が、信濃松代(まつしろ)十万石から出羽庄内(現在山形県鶴岡市)に十四石で加増移封され、幕末までこの地が酒井左衛門尉家の領地となりました
徳川四天王筆頭の名家として、奥羽の外様大名に対する押さえの任を担った酒井家は、決して老中等を輩出していなくても、幕府を支える譜代大名重鎮であったと言えますね
以上、酒井忠次についてお話をさせて頂きました
まだまだ、面白いエピソードが沢山あるのですが、それは別の機会に譲らせて頂き、一先ず区切りと致します
次回は、今がまさに旬の人である、石川数正についてお話します