俗に、徳川四天王と言えば…
①酒井忠次(さかいただつぐ)
②本多忠勝(ほんだただかつ)
③榊原康政(さかきばらやすまさ)
④井伊直政(いいなおまさ)
上記の四人であることは、既に人口に膾していますね
そして、この四人の筆頭は
ズバリ、海老掬いが十八番である、酒井忠次であります
他の三人が家康より年少であることに対して、忠次は家康より十五歳の年長者でした
また、忠次の活躍期は、三河時代から関東入国直前迄であり、関東入国以降も第一線で活躍した三人と比べて
聊か時期がズレてもいます
家康が三河統一から、遠江・駿河、更には甲斐と信濃を版図に加えた、東海五ヶ国時代にかけて
終始一貫して家康を支えた家臣筆頭こそが、忠次その人であり、彼の存在なしに…
家康の青年期から壮年期にかけての、数々の困難や危機、そして試練を克服出来なかったと言っても過言ではありません
言い換えれば、忠次は石川数正(いしかわかずまさ)と共に、家康を育て上げた筆頭重臣(筆頭家老)であったのですが、そもそも
酒井家は他の徳川譜代家臣達とは別格の存在であったとも言われています
タケ海舟が訪れた安城歴史博物館の展示にも説明があったのですが、松平家初代親氏(ちかうじ)が三河国松平郷の松平太郎左衛門(まつだいらたろうざえもん)の婿養子となる以前に、同じ三河碧海郡土豪の酒井(坂井)氏に婿入りして、酒井氏の娘との間に広親(ひろちか)という一子を儲けたとされています
その後、何らかの事情で酒井家を離れた親氏が松平家の婿に迎えられて、信光(のぶみつ)が生まれたのですが、この後成人した
広親が父を訪ねて松平郷へやって来たらしく、若かりし頃の過ちが原因だったとはいえ、親氏は聊か困った様ですね
既に信光が松平家の後継者となっている以上、今更広親を後継に出来る筈はなく、結局彼を家の子(一族に近い家臣)として処遇することで決着を付けたのです
この後の史実を知っているタケ海舟から見れば、この時の親氏の判断は、見事だったと言えますね
この広親こそが、徳川四天王筆頭である酒井忠次の遠祖であり、酒井家は初代が主家と兄弟であったという特別な関係性と…
忠次一代の抜群の功績と共に、松平(徳川譜代)で他家を大きく凌ぐ門地と築いたのです
但し、この由緒説が果たして事実なのかとなると…
正直怪しいかなというのが本当に所みたいです
忠次の属する、酒井左衛門尉家(さかいさえもんのじょうけ)の系譜を掲載している史料について、忠次父の代以前が史料によってまちまちで、系譜を確定出来ず、そうなれば、松平家との兄弟関係に関しても再考を要するかもしれません
因みに、特別展でも説明があったのですが、酒井家は忠次の左衛門尉家の他に、もうひとつ雅楽頭家(うたのかみけ)という有力な系統があり、代々三河西尾辺りを拠点としていたと言われています
(『どうする家康』ではここまで登場していませんが…)
左衛門尉忠次の家が、主に戦場や他家との外交折衝等で力量を発揮したのに対して、雅楽頭家は代々当主松平家の補佐役を務めるという譜代の上級家臣でした
良く知られているのは、忠次より少し年長であった雅楽助政家(うたのすけまさいえ)で、彼は家康の駿府人質時代より岡崎城の政務を任せられていた家老衆の一角を占めていました(勿論忠次もその席の一に連なっていました)
家康が岡崎帰還後も、政家は家康の補佐を続け、特に三河西尾城代を任せられ、三河一向一揆との戦いにおいても、重要な役割を果たしています
天正年間初めに亡くなった政家の後は、家康よりも年少である嫡男重忠(しげただ)と弟忠利(ただとし)が雅楽頭家の中核であったのですが、どうもこの家は戦では目覚ましい手柄を立てることは少なかったらしく、戦場働きが重要視されていた戦国全盛期では
あまり目立った存在ではなかったみたいです
それでも、関東国替え等では要衝の地を任せられたり、婚姻等の徳川家の重要な儀礼では重要な役割を果たしており、徳川家臣団の中枢に位置する名家と言えますね
寧ろこの家の真価は、徳川家が将軍として、天下の政を担うことになってから発揮されました
重忠嫡男忠世(ただよ)と忠利嫡男忠勝(ただかつ)が、幕府政治を担当する年寄(老中)、更には大老(たいろう)の重職を担ったのを筆頭に、雅楽頭家は老中・大老を輩出する名門譜代として躍進を果すのです
そう考えますと、酒井二家は、それぞれの得意分野を以って徳川家に仕え、実績を積み上げて行った訳ですね
さて、忠次のお話をもう少しさせて頂きたいので、続きは次回と致します