フライトジャケット夜話 第九夜 「ハドソン川水滸伝 エアロレザー社調査報告(後編)」 | 飛行服千夜一夜物語

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どんなフライトジャケットにも、袖を通した者と歩んだドラマがあるもの。
飛ばなくなったフライトジャケット達との思い出話と、そこに秘められたヒストリーを紹介します。

こんばんは。 

今回もポーランド移民の革職人、マックス・ウェーバー氏を中心に、「Aero Leather Clothing Co.(以下「エアロレザー社」」の実情に迫ります。

前回はエアロレザー社の誕生までを語りました。

それでは続きをお楽しみください。


 

第五章 マックスの再起

 エアロレザー社の独立により、マックスはエイブら優秀な社員と工員を失い、もはやビーコンでこれ以上の活動をすることは不可能でした。


失意のマックスはマーチンを頼って、川向こうのニューバーグの町へと去っていきました。

(筆者注: マーチンが経営するPhillips Tanningは1938に軍からB-3フライトジャケットを受注しています。これは初めてラッカーコーティングが施されたB-3として知られています。)


ニューバーグに移ってから、マックスに運気が向いてきます。

1934年の放火事件に端を発した保険会社との争いについて、ニューヨーク州最高裁判所は、一審、二審の決定を覆し、マックスに有利な判決を下しました。

それによって、マックスは被害額の全てとは言えないまでも、ある程度のまとまった資金を手に入れることができたのです。


マックスは社名を「Werber Sportswear Co(以下「ウェーバー社」)に変更するとともに、得られた保険金を元に、ハドソン川のほとりに新しい工場を作り、1939年の年明けすぐには、わずか1,250着でしたがA-2フライトジャケットを受注(ac12091)することができました。

また、ビーコンでドラッグストアを経営していたマックスの長男ジャックが店をたたみ、マックスの優秀な補佐役となりました。

その後、次男のハーマンと三男のフィリップも経営に参加することになります。

マックスの子供達は皆、仲が良く、しかも大変優秀であり、それはマックスにとって大きな支えになったのでした。


ウェーバー復活の象徴になったA-2 12091。初期のエアロレザーとウェーバーのA-2はよく似ている。「A-2 Identification manual」より


一方で、1937年に創立したエアロレザー社は、ウェーバー時代に培ったノウハウを活用し、早速、軍から1,500着のA-2フライトジャケット(ac10490)を受注することに成功しています。


エアロレザーの社名を初めて冠することになったA-2 10490。「A-2 Identification manual」より


第六章 参戦前夜

 反ユダヤを掲げるナチス党がドイツの政権を取って以降、ドイツ在住のユダヤ人が海外に移住するケースが増えてきました。

しかしアメリカは世界恐慌後の失業者問題に加え、国内の反ユダヤ主義や孤立主義への配慮のため、ユダヤ人の受け入れを渋るようになっていきました。


1939年9月1日にナチスドイツがポーランドに侵攻を開始、9月17日にはソ連も攻めてきて、わずか一月足らずでポーランドは降伏してしまいました。

マックスもエイブもポーランド出身のユダヤ人です。

親兄弟や友人の多くがポーランドに住んでいましたが、この頃からまったくの音信不通になりました。

このことがその後にどのような惨禍をもたらすのか、予期できる者はいませんでした。


その後もヨーロッパの情勢が悪化するにつれ、軍はA-2やB-3、B-6といったフライトジャケットを立て続けに発注していきました。

アメリカはまだ参戦はしていませんでしたが、革製フライトジャケットのニーズが高まると予期したエアロレザー、ウェーバー両社の経営陣は、製造ラインの強化に取り組みます。


1939年、マサチューセッツ州とメイン州に工場を持つRoyal Coat Co.は、需要が見込まれる革製フライトジャケットの生産をするための子会社「Perry Sportswear Co.(以下「ペリー社」)」をニューバーグに作り、空き工場を改装して生産を行うことにしました。

皮革・繊維産業における十分なノウハウを有していたマーチンは、このペリー社のゼネラルマネージャーとして雇われることとなりました。

その後、マーチンはペリー社工場の敷地内に間借りする形で、布製軍服を製造する会社「L.S.L. Garment Co.」を設立しました。


さて、ヨーロッパではフランスを占領したナチスドイツが、ソ連へと侵攻していきました。

1941年の夏頃には、ウクライナに侵攻したドイツ軍が、現地のユダヤ人を大量に殺害しているようだとの噂を漏れ聞くようになりました。

それでも孤立主義を続けていたアメリカでしたが、1941年の春頃から本格的に戦争を意識するようになり、フライトジャケットの発注数も数万単位に激増します。


1941年12月8日、日本軍の宣戦布告により、アメリカは第二次世界大戦に参戦します。


第七章 マックスとエイブの戦争

 1942年6月2日、70万人のポーランド系ユダヤ人がナチスドイツにより組織的に殺害されたとのニュースをBBCが報道し、世界中に大きな衝撃を与えました。

マックスとエイブにとって、軍が要求する何万着ものフライトジャケットを迅速・確実に納入することは、弾圧されている親族や同胞達を一刻も早く救うための重要なミッションとなりました。


ビーコンとニューバーグが産み出すレザー製フライトジャケットの生産量は圧倒的であり、この地域は全米でもトップクラスの供給地となりました。

(筆者注: A-2ジャケットを例にすると、二次世界大戦間(1939.9〜1945.8)、ビーコンとニューバーグだけで全生産数のおよそ3割を納入している。)


1941年から1942年にかけて爆発的に発注数が増大したレザー製フライトジャケットでしたが、ヨーロッパ全域における戦火の拡大により、レザーの原皮を入手することが次第に困難になりました。

このことはレザー製フライトジャケットの品質低下だけでなく、単価の上昇も招きました。

アメリカ国内も物価が上昇という要因も加わり、1940年以前は7ドル弱であったA-2の単価は、1941年の夏には7ドル後半、1942年の春には8ドルを超えるようになりました。

そして1943年を境にアメリカ陸軍航空隊は、レザー製のフライトジャケットを、コットンとアルパカを使用したものに更新していきました。


1943年までに、エアロレザー社からルイス・クレイマーとジョン・リーブマンが去っていきました。

理由はわかりません。

その後、ルイス・クレイマーは1943年にニューヨークでKramer Jewelryという宝石商を設立し、それなりの成功を得ました。

ジョン・リーブマンの消息は不明です。

 

エイブはレザー製フライトジャケットには将来性が無いことを予見し、1944年頃にエアロレザーの工場の敷地内に、非レザー製航空衣料を製造する会社「Aviators Clothing Co.」を立ち上げました。

また、この頃にはエイブの一人息子ラルフが経営に参加しています。


ウェーバー社は、B-3とD-1ジャケットを主に製造していましたが、1944年からはB-15といったコットン製フライトジャケットを納入しています。


マーチンのL.S.L GarmenrtもB-10やB-15ジャケットを納入しました。


1945年8月、長かった戦争が終わりました。

第二次世界大戦の終焉により、フライトジャケットのための予算は皆無と言っていいほどに削減され、また、レザー製フライトジャケット産業の終焉も訪れました。

蜂の巣をつついたかのような町の喧騒も消えてしまいました。


そして、ポーランドに残っていたマックスとエイブの親族、友人達のほとんど全員が、ナチスドイツによるホロコーストの犠牲となっていたことを知ったのでした。(筆者注: マックスのずっと下の弟ジェイコブだけが奇跡的にホロコーストを生き延び、戦後、アメリカに渡っている。)


第八章 それぞれの戦後

1948年、ビーコンの上流の町、ポキプシーでレザー製フライトジャケットを製造していた「Poughkeepsie Leather Coat Co.」が消滅しました。

この会社の経営者はジョン・パッテンという実業家であり、彼は電化製品や家庭用品も手がけていました。

彼は自分の能力に自信を持っており、ビジネスのコツやスキルアップをレクチャーするラジオ番組も持っていました。

しかし、この会社の製品の品質は低く、全ての工場で納期遅延が発生しており、軍の査察を受けることもありました。

1947年、労働者に2週間以上も給料を支払わなかったため、パッテンは起訴、有罪となり、工場は閉鎖されました。

更に税金も滞納していたため、工場の機械や設備は接収・売却され、完全に消滅したのでした。

こういった事例は、拡大しすぎた皮革産業や軍需からの転換ができなかった企業に多く見られました。

目に余る酷さのポキプシー製B-6ジャケット。絶句。「FULLGEAR」より


Perry Sportswear co.の親会社であるロイヤルコート社は、1950年にニューバーグの工場を撤退し、工場はマーチンのL.S.L. Garmentが受け継ぐこととなりました。


エアロレザー社も売り上げが激減しましたが、エイブは既に立ち上げていたAviator Clothing co.に上手く事業を移管できたため、大きな混乱もなく、エアロレザー社をたたむことができました。


エイブの子のラルフは冷戦の激化による軍需衣料のニーズ拡大に答えるため、1953年頃、エイブの工場の隣に「Skyline Clothing Corp.」を立ち上げます。

この会社は、後にエイブのAviator Clothing Co.を吸収し、1960年代前半には全米のトップ企業にまで成長したのでした。

(筆者注: Skyline Clothing Corp.をラルフと共に立ち上げたソル・アミエルとサム・アミエルの兄弟はニューバーグで「Skyway Clothing Corp.」も立ち上げている。社名も似ており、おそらくSkyline Clothing Corp.と何らかの資本関係を持っていたものと推測します。)


マックスはウェーバー社の代表を長男のジャックに譲りました。

ジャックは民需への転換に成功し、経営を安定させました。

次男のハーマンも三男のフィリップも兄を支え続けました。

ウェーバー社ははバスケットボール・チーム「Werber Hoopsters」を立ち上げ、1952年にはシーズンチャンピオンになりました。

このとき、マックスがチームのキャプテンにトロフィーを渡す写真が残っています。

左からフィリップ、チームキャプテンのボブ・マハー、マックス、ジャック、ハーマン

ウェーバー社は1960年代まで存続しました。


1955年8月10日にマックス・ウェーバーが、1978年にエイブ・ウォルコウィッツがこの世を去りました。

ラルフのスカイライン社も製造業の衰退と他者との競合を生き残ることができず、1970年代に消滅しました。


ビーコンに眠るマックスとその妻レベッカの墓石


ビーコンとニューバーグには、既にフライトジャケットの工場は無く、残された古いレンガの建物が当時の喧騒を伝えています。

これらの町がレザー製フライトジャケットの生産を止めてから80年以上が過ぎ、マックス達の苦悩を知る者は、もういなくなりました。

ただ朽ちるのを待つ古いレザーフライトジャケットだけが、その秘めた想いをひそやかに訴え続けているのです。


〜調査報告終わり〜



はァ……何とか書き終わりました!

駄文にここまで付き合っていただき、ありがとうございました。

ちょっとは楽しんでいただけました?

今回、地方の新聞記事を中心に調査しましたが、フライトジャケット界隈で有名な社名が次々と現れて、それが「Max Werber」という一人の男が起点になっているという事実を知ったときは、大変興奮しました。

エアロレザー社の話にもかかわらず、どうしても彼を物語の主人公にしたかったのです。

しかしビーコンとニューバーグって足しても人口数万人の小さな町なのに、とんでもない存在感を示しましたね。

まさに「フライトジャケットの聖地」と言えます。

そういえば、10年くらい前に、ライトニングという雑誌がビーコンに取材に行ってますね。

結構みんな知ってる話なんですかね…もしかして。

最後に、オマケとして、私が自作したニューバーグとビーコンの観光マップ(ただしフライトジャケット関係地に限る)をはっておきます。

距離感もなんとなくわかると思います。


 

それでは、今回はこれで終わりです。

次回をお楽しみに!