フライトジャケット夜話 第八夜 「ハドソン川水滸伝 エアロレザー社調査報告(前編)」 | 飛行服千夜一夜物語

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どんなフライトジャケットにも、袖を通した者と歩んだドラマがあるもの。
飛ばなくなったフライトジャケット達との思い出話と、そこに秘められたヒストリーを紹介します。

こんばんは。 

今夜は趣向を変えて、有名な割には謎の多いフライトジャケットメーカー「Aero Leather Clothing Co.(以下「エアロレザー社」」について語りたいと思います。


エアロレザー社は、1930年代の後半に突如として現れ、米陸軍航空隊フライトジャケットのトップメーカーに躍り出た後、終戦とほぼ同時に歴史からその姿を消しました。


この謎多きメーカーの誕生とその後について、私なりに調査してみました。

調査は米国のビンテージ古着系フォーラムや、信頼できる書籍、地元紙(「The Newburgh News」「The Evening News」)の記事なんかを参考に行いました。


思ったより長くなりそうなので、エアロレザー社の誕生までを前編、その後の経緯を後編として、物語形式でお伝えします。


それでは、アメリカのとある小さな地方都市を舞台とした、悲喜こもごもの人間ドラマをお楽しみください。



第一章 マックスの起業

 第一次世界大戦により荒廃したヨーロッパを尻目に、戦乱の影響を受けなかったアメリカには、好景気の時代が訪れようとしていました。

ヨーロッパからは一攫千金を夢見て、多くの貧しい民衆達が、移民としてアメリカにやってきました。

ポーランド出身の革職人であるユダヤ人、マックス・ウェーバーもその一人です。

マックスは故郷に両親と兄弟達を残し、アメリカンドリームを実現させるため、単身ニューヨークにやって来たのでした。


1920年、マックスが35歳のとき、同じく移民出身であるイトキン兄弟の助けを借り、マンハッタンのダウンタウンに自分の店「Itkin-Werber Leather Coat Co.」を持つことができました。

とは言え、ハンドメイドの革細工では、どうしても売り上げに限界があったのでした。


ニューヨーク州にはハドソン川という大きな川が南北に流れており、その周辺は、大都市ニューヨークに食糧を供給する穀倉地帯です。

ハドソン川沿いには人口一万人程度の小都市が点在し、そこでは新たな産業として、皮革業や繊維業が着目されていました。


マックス達は、1921年、ハドソン川のほとりのポキプシーという小さな町に、それまた小さな工場を作り、1923年から稼働を始めました。

売上は上々だったため、マックス達は更なる事業拡大を図ることとし、より大きな工場に移転することにしました。


ポキプシーからハドソン川を10マイル程下ったところに、ビーコンという小さな田舎町があります。

ビーコンには小高い山があり、南北戦争当時、ここに置かれた狼煙台がその名の由来となりました。

1927年、マックス達はメインストリートの東端にあった古い製糸工場の改装に着手し、工員の募集を始めたのでした。

ビーコンの市街地とその名の由来になった小高い山


第二章 世界恐慌

 更なる事業の拡大を期してビーコンに工場を移したマックス達ですが、早速、困難が訪れました。

操業は開始できたのですが、必要な工員が集まらず、生産量が伸び悩んだのです。

このままでは銀行から借りた資金が返せません。

ポキプシーに戻ることも検討しましたが、結論が出ず、経営陣の関係も悪化してきました。

そんな中、1929年10月24日、ウォール街の株式市場が大暴落し、大恐慌の時代が始まりでした。

革製品の需要も急減していきました。


イトキン兄弟はマックスを見放して独立しました。

しかも大勢の工員を自分たちの工場に引き抜いていったのです。

マックスの社員であったジョン・リーブマンは引き抜かれた工員を説得しようと試みましたが、イトキン兄弟と激しい口論の末、暴行に及んで逮捕される事件が起こりました。


そんな混乱のうちに、残留した工員たちは給料アップと待遇改善を求めて、ストライキを行うようになりました。

マックスはこの危機を打開するため、政府との契約を事業のメインにおくようにしました。

その結果、大きな契約ではありませんでしたが、マックスの会社…名を改め「Werber Leather Coat Co.」は、1932年にB-2フライトジャケットを、1933年にA-2フライトジャケットを受注できたのでした。


1933年にマックスの長女のアリスが結婚しました。

相手はビーコン市の川向にあるニューバーグ市で両親と衣料品店を営んでいたマーチン・レンジャーという28歳の優秀な男性でした。

マーチンはマックスの工場になめし革を供給するためのPhillip’s Tanning and Clothing Coという会社をニューバーグに作りました。

アメリカの景気はドン底でしたが、マックスは会社を存続させるため、知恵を振り絞り、必死で働いたのでした。


第三章 かさぶたの町

 1933年になっても景気は益々悪くなるばかりで、マックスの会社、Werber Leather Coat Co.では、行員達が頻繁にストライキを起こしています。

ある日、ストライキを行っている工員が工場に火をつけました。

火は直ぐに消されたので、3,000ドル程度の被害ですみました。

しかしその時、火事場泥棒が発生し、保管していたコートが数着盗まれてしまったのです。

調査した結果、消化活動を行ったある消防士が疑われ、告発されました。

その消防士は無罪を主張し、同僚の消防士たちもその主張を信じました。

やがて消防士たちは、マックスに対して不信感を抱くようになっていきました。


1934年になり、会社の資金繰りもストライキも益々厳しくなりました。 

そんなとき、副社長としてマックスを支えていたルイス・ケルマーが、Phillip’s Tanning への請求書を改ざんする事件が起こりました。


もう、誰もが限界でした。


1934年5月、マックスへの不満を爆発させた工員達は、ガソリンやダンボール、ボロ切れ、マッチの束などを持ち寄り、工場の倉庫にまたもや火を付けたのです。

この時、消防士達は火を消すことをためらいました。

同僚が火事場泥棒と疑われたからです。

やがて火災は広がっていきました。

しかし、工場には以前の火災の後、行政指導としてスプリンクラーを設置していました。

スプリンクラーが効果的に作用し、火災の延焼拡大は食い止められたものの、何しろ皮革製品の工場でしたので、保管していた資材も製品も全て破損してしまいました。

20,000ドルという多額の損害でした。


マックスは保険会社に20,000ドルを直ぐに支払うよう要求しましたが、保険会社はマックスの自作自演を主張したため、裁判が始まりました。

なんと一審、二審ともマックスは敗訴し、放火された工場は差し押さえとなりました。

90人いた工員の1/3が退職し、残った工員達はわずか0.03ドルのベースアップを得たことで、この酷い労働争議は終わりました。


そして、ビーコンの町は誰が名づけたのか、「かさぶたの町(scab town)」と呼ばれるようになりました。


第四章 エアロレザー社の誕生

 マックスは自分の会社を延命させるため、1935年、550着のA-2フライトジャケットをかろうじて軍から受注し、残った工員と資材、あらゆる伝手を使って、何とか翌年に納入することがでしました。

不動産を売却して何とか経営資金を確保しようとしたマックスでしたが、彼の工場の財務状況は火の車であり、そう長く持たないであろうことは、誰の目にも明らかでした。


イトキン兄弟を殴り、第3級暴行罪で有罪判決を受けたジョン・リーブマンは、罰金を支払った後もマックスの工場で働いていました。

彼は沈みゆく船に乗り続けるより、独立して一攫千金のチャンスをつかむことにしました。

彼はマックスの工場を追い出されたルイス・クレーマーと共謀し、マックスの工場から工員を引き抜いて、自分の工場を作ることにしたのです。

しかし事業を成功させるには、皮革製品の製造に関する十分な知識、技能、経験を持った、核となる人材が必要でした。


アブラハム・ウォルコウィッツ(通称エイブ)は、ポーランドからやってきたユダヤ人の革職人です。

エイブは革職人としての技能だけでなく、経営者としとの才能も持ち合わせていました。

マックスは自分とよく似た境遇の、8歳下のエイブを信頼し、大きな期待を寄せていました。

ジョン・リーブマンは自分の会社にはエイブの参加が必須と考え、マックスの下から引き抜くことにしたのです。


ジョン・リーブマンの試みは、すべてうまく行きました。

資金も工員も失ったマックスには、エイブを引き止めることはできませんでした。

1937年、ジョン・リーブマン、ルイス・クレーマー、そしてエイブの3人は、ビーコンのフェリーストリートの工場跡地を改装し、「Aero Leather Clothing Co」を設立したのでした。

前編はここで終わりです。

エアロレザーってウェーバーを母体…といか食い破って生まれた会社だったんですね。

世界恐慌という生き馬の目を抜く壮絶な時代、皆んな生きるのに必死でした。



エアロレザー社はこの後どうなったのか?

そしてマックス・ウェーバーのその後の運命は?


後編をお楽しみに!