太閤秀吉に頭を下げなかった茶聖・千利休(戦国漫遊録 第128回) | 戦国武太郎の戦国漫遊録

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戦国に関するエッセーです。

 
                 千利休画像
 

 

千利休はいうまでもなく茶の湯の大成者ですが、反骨精神も並々ならぬ人だったように思います。

 

天下人の秀吉におもねらないどころか、敢然と反抗するのです。自分の茶の世界に妥協はありません。秀吉が苦虫を噛みつぶすような、むかつくことを何回もしています。

 

秀吉もついに堪忍袋の緒が切れて切腹を申し付けます。利休は切腹を命じられても全く動揺しません。最後まで頭を下げなかったのも特筆されます。

 

恭順の意を表せば命は助かったでしょう。でもそうしませんでした。ここに今につながる千家の強靭な伝統精神を垣間見るのです。

 

利休は大永2年(1522)に堺で生まれています。京の人ではありません。秀吉よりも15年ほど人生の先輩で、堺の納屋衆千家の当主です。

 

納屋衆というのは倉庫貸付業などを営む商人と言う意味です。

 

利休は茶の湯に関心を示し、堺の豪商で狭い茶室での茶の湯「侘敷(わびしき)」を提唱した武野紹鴎(たけの・じょうおう)に師事しました。

 

天下人と称された阿波の戦国武将・三好長慶(みよし・ながよし)とも交流し権力者との人脈づくりにも抜かりはありませんでした。

 

織田信長にも取り立てられていますが、その才能を大きく評価したのは太閤・秀吉でした。茶頭として例えば、秀吉の北野大茶会を主宰しましたし、秀吉の信頼を得て政治的な力も発揮していました。

 

豊後の戦国武将、大友宗麟(そうりん)が大坂城を訪れた際、秀吉の弟・秀長が宗麟に対して「公儀のことは私でいいが、内々のことは宗易(そうえき=千利休のこと)に頼まれるのがよろしい」と語ったことが記録されています。すごい力をもっていたのです。

 

だがその利休の権力を奪い取ろうとする勢力も根強いものがありました。利休の性格の強さが災いしたのかもしれません。こんな話があります

 

利休の居宅に朝顔が美しく咲き乱れていると聞いて秀吉が見に行くと、その朝顔はすべて刈り取られ、一輪の朝顔だけが茶室にいけられていました。紅色でした。

 

最初は怒ろうとした秀吉ですが、矛(ほこ)を収めざるを得ませんでした。

 

普通の茶人ならきれいに咲き誇る朝顔を天下人の秀吉に残しておくでしょう。それを一輪だけ残してすべて刈り取るという行為はどうたったのでしょうか。こういうことが何回かあったようです。

 

天正19年(1591)2月、利休は突然失脚します。最初は堺に蟄居(ちっきょ)を命じられますが、その後、切腹を言い渡されます。何があったのか推測するしかありません。

 

利休が力を持ちすぎて排斥される動きが秀吉側近から出たこと。秀吉に何度も歯向かったこと。茶事における路線の対立などなどです。

 

大徳寺に自分の木像を掲げたというのは言いがかりのひとつでしかないでしょう。真相はやぶの中です。でも秀吉最側近の石田三成の思惑が働いたのは間違いありません。

 

茶聖・利休の辞世はすごい内容です。

「人生七十…我がこの宝剣 祖仏共に殺す…一つ太刀、今此(こ)の時ぞ天に抛(なげう)つ」

 

とにかく激しいです。自分の剣で仏を殺し、その剣を天に放り上げて自らも命を絶ちます、というものです。秀吉への恨みが込められていると思うのですが。

 

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