謀略が得意だった毛利元就(戦国武太郎の戦国漫遊録⑦) | 戦国武太郎の戦国漫遊録

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戦国に関するエッセーです。

 

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西国の雄である毛利元就(もうり・もとなり)は戦国七大武将に入る傑物でしたが、希代の謀略家でもありました。戦国期は相手に見透かされる作戦を立てていたのでは勝てません。相手の心理を読み、行動を予測して意表をつく作戦で勝利しなければ、名将たりえません。

領土拡大に燃える野望を抱いていた元就はそうした器量を持つ武将でした。安芸(あき)(広島県)の小さな領主からスタートして、大国を支配していた尼子、大内両家を滅ぼして着実に領土拡大に成功しました。

その基盤となったのが親族の結束や後継者づくりです。通例、戦国では兄弟による骨肉の争いは当たり前でしたが、「三本の矢」の故事が残るように毛利家では珍しく協力し合いました。毛利本家と、養子に出して相手を飲み込んだ吉川家と小早川家でした。特に小早川家に養子で入った小早川隆景は度量のある武将でした。

永禄九(一五六六)年には中国地方で八カ国以上領有し、当時の織田信長、武田信玄、上杉謙信の領地を上回っていました。家督を相続した大永三(一五二三)年から数えて四十三年の偉業でした。

元就が指揮した弘治元(一五五五)年の厳島の合戦は日本三大奇襲作戦のひとつとされますが、絶対的な兵力不足の戦いでした。五倍の兵力差を覆したのは夜間の奇襲作戦で、油断していた敵将・陶晴賢(すえはるかた)軍をほぼ壊滅させました。

「はかりごと多きは勝ち、少なきは負け候(そうろう)。能も芸も慰みも道だても、なにもいらず候。ひとえにひとえに、武略、計略、調略かたのことまでに候」。謀事がすべてと言ってます。元就が長男隆元(たかもと)に与えたもので、最も元就らしい言葉です。

 
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