相当ケチだった北条早雲(戦国武太郎の戦国漫遊録⑥) | 戦国武太郎の戦国漫遊録

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戦国に関するエッセーです。

                北条早雲画像

 

戦国時代、出自が謎に包まれたまま出世街道を駆け抜けた男が何人もいます。その中の代表格が戦国三梟雄とされた北条早雲、斉藤道三、松永久秀でした。

 

早雲の場合、伊勢の一介の素浪人から這い上がり戦国大名となって東国に覇を唱えたというものです。でも、古文書調査などによってこの話は間違いであることが分かりました。

 

早雲はもっと位の高い武士で室町幕府の役人でした。備中の荏原庄(井原市)の伊勢一族として生まれ、本当の名前は伊勢新九郎盛時でした。早雲が存命中、一回も早雲と名乗ったことはありません。

 

早雲の妹(姉説も)が駿河の守護大名、今川義忠に嫁いでいたことがきっかけでした。

 

智謀に長けた早雲は今川家の内紛を解決し同家を盛り上げる活躍をして興国寺城を得ました。これを拠点に伊豆をわが物としたのです。鮮やかな下剋上でした。

 

名将とは言えその後、小田原城を奪取して相模国を統一するのに二十年かかりました。早雲は戦国時代には珍しい長命で八十八歳まで生きましたが、相模国の統一は亡くなる三年前のことでした。

 

いくつかの言葉を後世に残しています。「上下萬民に對し、一言半句にても 虚言を申すべからず」というもので、嘘をついてはならないというのですが、小田原城に義父を攻めた際など「兵を動かしますが鹿狩りです」などと大嘘をついてます

 

ほかに早起きを奨励し「朝はいかにもはやく起きぬべし」としていますし、「伊豆之相(早)雲ははり(針)をも蔵に積べきほどの蓄仕(たくわえつかまつ)りつる」

 

(早雲寺殿廿十一箇条)「亡父入道殿(早雲)ハ、第一ハ倹約を守り、華麗を好ミ給(たま)ハさる故也(ゆえなり)」(氏康)と非常に堅実だったことが分かります。ある意味細かかったような気もします。

 

飽くなき野望を抱きながら仁政を敷くという二面性を持って北条氏五代の基礎を築いた早雲。

 

大胆さと細心、謀略と誠実とが同居する複雑な顔を持った戦国のマキャベリストと言えるのではないでしょうか。

 
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