上杉謙信画像
「越後の虎」と言われた上杉謙信は損得勘定を抜きにした義で動くことが多かった武者でした。一言で言えば無欲でした。
上杉景勝を補佐した直江兼続も謙信から大きな影響を受けました。兜の前立てに「愛」をつけた武将です。兼続は関ケ原の合戦前、天下取りの徳川家康を愚弄して激怒させた男であります。
それはさておき謀略と裏切りが当たり前の戦国時代にあって謙信は極めて異色で、その行動は規格外と言ってよいでしょう。
清廉潔白で、領土や権力に対する野心を強く持たない稀有(けう)の存在でした。その一方で矛盾するのですが、極めて好戦的で合戦の天才と言われた軍略も大きな魅力となっています。
それ以外にも、毘沙門天(びしゃもんてん)を信仰し、妻帯せずに孤独の影をひきずったまま戦国武将としての一生を終えています。ここも魅力的ですね。
二度上洛していますが、ともに野望を抱いたものではなく、天皇や幕府の権威に従う穏やかなものでした。そこがまた謙信らしいのです。
「名将言行録」(岡谷繁実著)などに、謙信が常に言っていたことに「我は毫(ごう)も天下に望みなし 唯(ただ) 戦陣に臨みては 機をみて敵を破る 是(これ) 我が本分なり」があります。こういう言葉も残しています。
いつか「死なんと戦へば生き、生きんと戦へば 必ず死する」という境地にも達していました。その勇猛さと戦略・戦術はさえわたっており、まさに戦いの天才といえました。
晩年の天正五年(一五七七)、織田信長軍が加賀湊川(手取川)を越えたという情報を受けて、謙信は出陣しました。その噂を聞いただけで信長側の柴田勝家や羽柴秀吉、滝川一益らの精鋭部隊は浮足立ち、謙信軍に蹴(け)散らされています。
いかに謙信の軍が精強だったか、「秀吉が三万の大軍を率いても、謙信は一万の軍勢で撃破したであろう」と言われました。
酒好きで天下取りの野心がなかった謙信。天正六年(1578)に亡くなっています。