死に装束で秀吉に頭を下げた伊達政宗(戦国武太郎の戦国漫遊録⑧) | 戦国武太郎の戦国漫遊録

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戦国に関するエッセーです。

伊達政宗を見ていると、エリート出身でありながらそのひ弱さはまるでないことに気づきます。軍略も政略もなかなかのもので、度胸もありました。

 

智略ももちろん備わっています。天下を取れる器でしたが、さらに大暴れしようとした時、天下は秀吉によってほぼ統一されつつあったのです。

 

奥羽出身という地理的ハンデもさることながら、時代に遅れて来た男という気がしてなりません。天正十八年(一五九〇)に行われた北条征伐で秀吉が動員した兵力(二十万人以上)を目の当たりにして政宗は観念したことでしょう。もう天下を取るのは無理だと。

 

それでも、あっさりと引き下がらない、一筋縄でいかないところが政宗でした。奥羽の反乱の黒幕は政宗という証拠の文書が出てきて秀吉に召還・詰問された時も、それを智略で乗り切りました。

 

その際の政宗の姿は異様でした。白の死装束で出向き、しかも磔も持参したとのことです。死ぬ覚悟であることを見せたかったのしょう。その度胸も評価されて秀吉に許されたのです。

 

謁見した際、秀吉に首を扇子で触られ「もう少しでそちの首は落ちていたぞ」と言われたのでした。間一髪で生き延びたのです。

 

もう一度危機が訪れます。豊臣秀次事件です。政宗は秀吉に交流の深さを咎められた際、政宗は「太閤様も秀次を見誤るのだから、片目の自分が見損じるのは道理だ」と抗弁したのです。

 

秀吉はその開き直りを受け入れましたが、京都住まいを命じました。政宗は十年近く伏見の屋敷に住みました。今も伊達街道という名前で呼ばれる通りが現地にあります。

 

その時に公家衆らとも交流し和歌、茶道、能、香道などを大いに学び、晩年は花鳥風月の世界に遊んだのです。国際的視野をも持った、なかなかの武将でした。

 
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