武道というくくりにしてしまうのか・・古武道と限定するべきなのか・・
筋力は・・衰える事は必然です。
老化を抑える事は・・難しいとも考えられます。
そういう中で・・いかに・・文化というモノを意識しながら武道に接していけるのか・・
そこは、個人差があるところです。
武道修行が難しくなったから・・他の事をやりだした・・のであれば・・
そこに、本当に文化としての武道があったのか疑問に感じる処でもあります。
明治維新の志士達のほとんどが・・20代30代の今で言えば・・まだ、成人式がすんで間もない人達でした。
しかし、実際には彼らは国を変えてしまう程のパワーを持って居た事は事実として認めざる負えません。
そこには、武道という武士文化という素晴らしい文化が・・武士の隅々まで行きわたっていた。
下級武士から上級の武士までが、同じ志の元に成果を出せたわけです。
徳川250年の歴史は、決して甘いものではありませんでした。
その礎にもやはり・・武士文化があり、平和な時代を、長く続ける事を本願とした思いと共に
成し遂げられたのです。
武士の子供達は・・10代になる前から・・厳しく文武を習得させられる教育を受けて行きます。
その教育は、私達が持って居る、常識的な・死に対するモノの考えをも根底から、くつがえさなければなりません。
身を守る、家族を守る、国を守る・・。そこに、現代の常識は通用しないという事が、あったと見てとれるでしょう。
根本的に、心や体の作られ方が違って居た事を、痛感せざるおえません。
徳川家光は・・48歳でこの世をさりました・・祖父は徳川家康・父は徳川秀忠・・秀忠の長男としてうまれますが・・
「どもり」癖があり・・男色だった事は・・史実としてあるようです。
子供のころから・・厳しくその使命を認識させられながら・・育ったという事・・
弟の方が、かなり優秀であり・・母(淀君の妹)はその弟を可愛がり・・将来を嘱望していました。
春日局が、家康の処へ直談判に行き・・家光を3代将軍にするという事を公言(遺言)させたにもかかわらず、
家光廃嫡の動きは、あったと言いいます。
そういう中で、家光には・・本田はじめ・・柳生という知臣を子守役として、
春日局などがその教育に携わりモノの深さを観抜く事のできる知恵をえる程までに、
成長したと物の本で読んだ事があります。
その家光も・・柳生の影響を大きく受けた人と言えるでしょう。
柳生宗矩は・・柳生石舟斎という天才の剣術新陰流を将軍家指南役として・・
天下にその名を轟かせた功労者の一人と言って過言ではありません。
そこが、宗矩の狙いで有ったともいわれております。
20代中盤から家康のおそばで・・秀忠と共に教育を受けて行くのですから、その才覚は・・素晴らしかったのでしょう。
しかしながら・・習い・稽古・工夫という教えがあるとするなら・・その事をある意味忘れてしまったのかもしれません。
稽古までは・・しっかりと・・石舟斎の教えを従順に指導して行った事と思われます。
宗矩は石舟斎の五男でした。
柳生兵庫助は・・石舟斎にうり二つと間で言われた人(孫)で、若い頃に二度仕官しています。
二度目が熊本加藤家への仕官ですが・・重臣を斬り加藤家を出て放浪の旅、その途中、柳生より呼び戻されます。
尾張初代藩主義直公は・・家康の七男にあたります・・尾張につかわす時に・・
直臣の成瀬隼人正に願い義直公の面倒見役を三度頼んだと言われて居ます。
陪臣に格下げになる事に対する家康の心遣いが伺われる処です。
その成瀬隼人正の願いで・・兵庫助は尾張指南役として赴任するのです。
連也は・・兵庫助の後添えの子ですが・・その母(珠)は、島左近の娘でもあります。
島左近は・・石田三成に懇願され家臣となりましたが、
「三成に過ぎたる物が二つある島左近に佐和山の城」と詠まれた程の名将だったのです。
その娘の子が連也でした、当初・・茂左衛門利方が跡継ぎとして・・その剣術の腕も確かなるがゆえに・・
信任されていたのですが、連也の腕が、さらに天才であったために・・
利方は柳生家の家督を継ぎ、連也が指南役としての宗家を継いで行きました。
当時の事を考えれば・・天才は時代の中で必要とされて生まれて来て居ると・・
そして、名を残す様な名人達人は、さらにその使命を帯ていると・・感じざる負えません。
歴史とは、たやすく作れる物ではなく、その使命を明確に意識したときからその役割を天命に従って遂行して行く努力精進が
必修となるのではないでしょうか。
明治の志士達に至っては、剣術稽古をおろそかにして居る幕府の連中をよそに・・
外様と呼ばれる藩の人達は、常にその精進を怠る事なく努力邁進しました、それは、己の名誉のためではないのです。
自国の誇り、自国に対する愛、そういう事が・・子供の頃からの修行に、拍車をかけ・・彼らを達人の域に達せさせたのだと考えます。
その思いは・・現代人の呑気さから言えば・・一〇〇年かかっても出来ない事を・・
二〇年という時間の短縮さえ思わせる成果として顕したのではないでしょうか。
ところが・・武道を腰掛けの様に考えてしまっては・・非常にもったいないというのが最近の私の感じて居る処です。
習い事として武道に接する事は、非常に良い事で、本当に・・その文化の中に根付いている大切な事を知って欲しいと願う気持ちは
とても強いのですが・・。
実は、武道文化の中に眠っている・・いえいえ・・眠って居るのは私達の体の中にあるものなのです。
その物を引き出す前に、その事に触れる前に・・椅子から離れてしまうのは・・・
先人が、血肉を削って・・心を伝えるという事を、考え・・ついやして来た時間の宝を・・
私達は、誰もが・・受け継げるチャンスを与えられて居ます。
時代が時代であれば・・実は目にしたり出来ない事のほうが多いわけですが、
現代においては・・情報の方が過多になり、自得の心を薄めてしまっている原因にもなっているはずです。
ああすれば・・良い・こうすればよい・・・脳は知って居るだけです。
実際に、出来る事・・そして、実践できなければ・・次の世代に受け継がれて行くのは劣化した物になってしまいます。
退化とは・・何世代かの積み重ねで起こります。
宗冬の時は、まだ・・江戸柳生もしっかりとした術を伝えていたと聞きますが・・・
四代目からは・・廃れて行ったと言われています。
六代将軍の頃には、武道に対する奨励さえも廃れてしまいました。
それゆえ、尾張を筆頭に・・水戸、和歌山と尚武の気質は一段と高まったという事もある様です。
古流と言う事に、見慣れない言い回し・意識して居なかった事がらが多く出て来ると思います。
それこそは、深さへの探求の入り口です。
簡単にしてしまえば、それは廃れて行く方向で有る事は間違いなく・・
簡単な事の中には・・技の昇華はないと考えます。
バランスと言う意味においても、通常人が考えうる様な事で・・
生死を掛けた思いの中で磨かれた技を、凌ぐ事は絶対にないと思えるのです。
バランスの悪いモノに良い物はありません・・特化した稽古は、良いアンバランスには至りません。
心技体。守破離・・これこそが、武道の心得の一番大切な所であります。
その事を、バランスよく心得て行く事がとても重要な事ではないでしょうか。
そう言う事を、理解する様な稽古が出来て初めて深さに向かう・・
本当の面白さ楽しさに向かっていけるのではないでしょうか。
私は・・夢だの希望だのといいますが、それらが心に対するエネルギーであるという事を宇城先生はおっしゃております。
古武道・武道・・色々な夢や希望を持って学び始めた事だと思います。
その夢や希望と言う事は・・・徳川家康が・・戦争のない平和な世を創る事を望んだ・・事。
上泉伊勢守が、人を活かす剣術を編み出し・・
柳生石舟斎がその課題・・無刀を完成させ、さらに活人刀を昇華させた事。
その心を受け継いでこれたからこそ・・新陰流は五〇〇年と言う歴史を刻んで来たのだと思います。
夢や希望の塊が・・日本の剣術文化であるという事は、まぎれもない事実であるのです。
その心にこそ誇りを持ち、自信を持ち・・未来に向けるパワーにして行かなければなりません。
武道というモノは・・朝やって夕方できるものではない・・私達が携わって居る時間など・・見えない点でしかない。
その事を踏まえて・・武道文化に希望を持つ事が、とても大切であると・・私は、考えて居ます。
誇と自信を取り戻す。
武道には・・夢が詰まっています(^^♪