柳生新陰流 | 夢・希望・愛 心豊かなれば技冴える  武道に感謝 心風館 館長 山村幸太朗

夢・希望・愛 心豊かなれば技冴える  武道に感謝 心風館 館長 山村幸太朗

人にはもともと自然からいただいた素晴らし能力が潜在しています。それは、すでに日常の生活に根付いている生活レベルの文化の中にあるのです。武道文化を活かし、さらなる可能性を・・眠っている潜在能力を開発する。「気」という世界観は、武道文化の中に眠っています。




柳生新陰流第  20世宗家柳生金治厳長先生(左)と


第21世宗家柳生延春厳道先生です。


厳長先生の略歴(2010年4月雑誌KENDOJIDAIより)

明治24年1月17日生まれ。父は柳生新陰流の正統を継ぐ柳生厳周である。


早稲田大学高等師範部を卒業して、東京帝国大学文学部哲学科(選科)で学ぶ。


大正11年5月、厳周より印可相伝、師範を継承し、東京・牛込(新宿区若松町)


の碧榕館、のちには金剛館に拠って当流を教授したが、昭和5年8月名古屋


にもどり、尾張代々の道場を維持しつつ、流儀の普及に努めた。


著書に「正伝新陰流」「剣道八講」など。昭和42年12月12日没。享年77歳。



延春先生の略歴(同上参照)

大正8年1月11日、柳生金治厳長の次男として生まれる。早稲田大学文学部


国文科卒。幼少より厳長について当流を学び、昭和41年印可相伝、師範を継承する。


東京、大阪、名古屋の教場で兵法の稽古と伝書の講義を継承して実施し、流儀


の発展に尽くした。著書に「柳生新陰流道眼」。平成19年5月4日没。享年


88歳。



回想


私が新陰流の門をくぐったのは・・平成18年の8月中頃です。


ちょうど、誠道塾NY本部での1ヶ月の稽古修行を終えて1月後だったでしょう。


この9月から9年目の修行に入りました・・・まだまだ、洟垂れの域を出ませんが・・


その頃、延春先生は・・毎回の稽古に必ずこられていて・・現宗家耕一先生は


既に宗家継承を済まされて間もない頃で・・現宗家が宗家を継承されてから・・


私が3番目の弟子になるのです。すでに、前に入られた人は、稽古にきていません。


ですから、私の前の先輩方は延春先生からのお弟子さんになります。


私のすぐあとに入ったSD君が・・・12月入門で、延春先生に一度だけお会いした


という事だったので・・私が・・延春先生の弟子として、最期のご指導を承れた


ということは、幸いです。しかし・・因果なもので・・先日のBさんの車の中で話していたのですが・・


Bさんも厳長先生の最期の弟子にあたり・・・厳長先生が,お亡くなりになられる


三ヶ月前に入門されたのだそうです。


先日の演武会でも感じたのだが、新陰流と名乗っていても、私たち尾張柳生


新陰流とは全く違う事を演武している方々がみえた事を非常に不思議に思っ


ています、厳長先生と○○館の○戸先生は兄弟弟子に当たられるので・・


そこを区別しようと厳周伝と厳長伝が違うという事を言う人が見えるようです


が、私からすればおかしな話で○戸先生は免許をいただいて○○館をはじ


められたのですから・・


正統尾張柳生新陰流としては、分家としてかなりの配慮をし、その道統の正


しさを認めていると、言う事にならないでしょうか?そうでなければ、まったく


違う事をしているのに・・新陰流と名乗ることを配慮し、同じ土俵の上に乗り


(同じ演武会)出演する事は、難しい事だと思われるます。


これは、柳生家の家訓にある


「袖触れ合うも・・・」があり・・教えのとても重要な部分とされる、位取り「傘に


傘をかける」の心持ちにつながる物と理解せざる負えません。


厳長先生は自分の高弟2名が厳長先生の許しを得ることなく、演武講演を行った


という事で、破門にされていますが・・その方々(延春先生には兄弟子にあたる)


からの依頼があり、延春先生が「新陰流」を名乗ることをお許しになったとい


うエピソードがあるそうです、その時、厳長先生から延春先生の後見を任された


のが、稲波先生(私が持っている刀の元主)と、もうひと方みえたのだそうです


が・・延春先生の懐の深さに感嘆し、稽古から遠ざかってしまったという事を、


SZさん(現宗家の後見)にお聞きした事があります。・


・新陰流居合??????


以来、教え?が多岐に渡る?格好が取られるようなったようですが・・・


どの新陰流も拝見させていただいても、私たち柳生会が行っている物とは隔


たりを感じざる負えません。


・私個人としましては、位を大切に・・今後も稽古に励む事は、とても重要な事


と、勉強させていただいているので感謝もするべきであるのです。


また、そういう方々の頑張りがあるがゆえに、尚更、尾張藩城主までもが、


新陰流の宗家を務めてその道統を残そうとされた、・・・さらには、明治天皇か


らは国の宝として残すべきと、誉れをいただいたことを強く心に認識して、


稽古伝承の火を絶やさないように務めなければならないと言う思いを


強くするものであります。


宗家が・いるということが・・なぜか・・重荷のような感じを受けられる方もあら


れるようですが、延春先生の人柄は、今も古参の方々の心を捉えて離さないようですし


・・耕一先生も道統を大切に思い、新しい方々を育てて行こうと言う気持ちを


強くお持ちになっておられるので・・気さくに接してくださる人柄は、ありがたい


と・・私などは感謝してもいます。


まだ・・稽古を始めて間もない頃の私に・・延春先生より・・居合の「向之太刀」を観て頂いた折


「うん!安心した!!」と頂いた事は、私の一生の宝となるのです。


古武道振興会・古武道協会の主催する演武会で新陰流を演武するのは、


ほとんどが、柳生会であるのですから、その道統の正当性は歴然としています。


・・・先日、日本武道館で天覧演武会が執り行われたが、古流剣術で招聘


されたのは、まさしく私の学ぶ柳生新陰流ただ一つだったそうです。


色々な新陰流の演武を見せていただきましたが、そのどれも否定するつもり


ありません。


その教えの中に理合いがあり、その理を信じ稽古精進している方々の努力を


何人たりとも否定などできなと、私は思っています。教えの中で、都合よく教えやすく


理合が退化する事もまま・・あることと・・厳長先生もその著書の中でおっしゃ


られておられることです。


私たし柳生会は、幸いにも尾張名古屋藩主からの藩命で、新陰流の伝書を


読解し後世に残すという事を仕事として命じられた、長岡先生の努力のお陰


をもちまして、そのもの本物を伝承の手引きとして教えを得ることができるので


す。





燕飛を薙刀で・・演武する事は、柳生会の教えにはありません。


それから・・三学を大きな刀で演武するような事も・・ありえません。


どういう伝承や説から、そのような事を稽古するのか・・それは、アドリブであり


新陰流的稽古?で・・・新しい理合いのもとに稽古されているのだろうと、思います。


尾張柳生新陰流の流祖は・・石舟斎の孫の兵庫助利厳ですが・・関ヶ原の合戦も


終わり・・徳川太平の世の時代に入って来てから・・名古屋初代藩主義直公の招聘で


名古屋の指南役として就任されました。


甲冑をつけて戦支度にて戦う剣術の操法を介者剣法などといいます。


これは・・鎧の隙間を狙うようにまたは・・鎧の薄い所を狙う・・例えば、又・脇・


手首・首・・等です。


そう言う所を狙う剣術は・・江戸期には必要がほとんどなくなっていくわけです。


そして、流祖以来・・「突っ立たる身」の位。「つったつるみの位」という事が、


伝承されてきています・・が・・・私は・・この構えこそが究極の構えであると・・


大切な教えであると言う事を強くかんじることができるようになりました。


長くて大きな刀を操る事は・・格好の良い事のように思えますが、私のように


新陰流の稽古を続けておりますと、その長さが必要ではないと・・この新陰流の


稽古をしていく上に於いては・・無用であると、確信している次第です。


古の教えに従い・・・その理合・口伝を大切にしながら・・も、新しい工夫を怠らない


その最上の形が「つったたるみ」の位であることは、間違いないのです。


その伝承すら、失うことなく・・いまだ・・その意味や理を大切に思って行ける事


こそが、とても重要であるはずです。まだまだ・・洟垂れの私ですが・・これくらいの


事は書けます。まだまだ勉強しなければなりませんが、それが楽しくて仕方がない


とも思っています。道の上に立っている事、立てる事を先師累代の方々に感謝


申し上げます。