民間人虐殺事件
日本は朝鮮の人々を恐怖に陥れるために、あらゆる悪行を行いました。
そうすれば、二度と万歳運動を起こさないだろうと思ったのです。
1919年4月15日に起きた堤岩里事件/ジェアムリ事件が代表的な例です。
この日の午後、日本の将校有田俊夫が憲兵と警察の一行を率いて水原の香南面ジェアムリに現れました。
有田は堤岩里事件ジェアムリの人々をすべて教会に集めました。
"一人残らず全員を殺せ。 発射!"
有田俊夫の命令が下るや否や、日本の憲兵と警察が銃を撃ち始めました。
教会の中に集まっていた人々は、突然降り注ぐ銃弾に打たれて倒れました。
外に出るすべてのドアが閉まっていたため、逃げる場所も、隠れる場所もありませんでした。
ちょうど一人が椅子を投げて窓を壊しました。
しかし、そこにも弾が飛び散りました。
どれだけの弾丸を浴びせたのだろうか。
悲鳴が収まると、アリタは部下たちを呼び集めました。
"火をつけろ。 死体の痕跡が残らないように、すべてを焼き払え!"
部隊に戻った有田は、昼にあった出来事を上司に伝えました。
"あまりにもひどくないか?" "いいえ、違います。 それほど家を取らなければ、朝鮮の高らかさは二度と半世紀を呼ぶことはできないでしょう。」
「そうだ、熱い味を見たので、しばらくは静かになるだろう。
「上級者はもはやその仕事を文系にしませんでした。 ジェアップリで多くの人々が殺されたという噂は、次々と伝わってきました。 ついにアメリカ人宣教師たちがこの事件の調査を始めました。
「ドアをロックして外から銃を撃ったようです。 そして火をつけました。 あまりにも残酷なことです。"
宇都宮太郎日記に堤岩里事件のことが書かれていたことで明らかとなっている。
サイト引用↴
3月初旬以来、京城を中心として朝鮮独立を唱えて暴動を起こす者がおり、警察官が穏和な手段をもって鎮定しようとしたが目的を果たさず、かえって良民を煽動し又はこれを脅迫し、大集団をなして示威運動をなすのみならず、面事務所(役所)又は内地人の家屋を襲い、殺傷・放火・破壊等の暴戻(ぼうれい)に及び官憲に反抗して内地人を迫害していたので兵力を頼むしかない状況に至っていた。
有田は尋常の手段では対抗できないため、首謀者を殲滅し、その巣窟を覆すことでその非望を根絶しなければ到底鎮定の効を奏すことはできない状況だと認識していた。
朝鮮軍司令官による暴動鎮圧に関する訓示は、有田の解したような趣旨ではなかったが、有田は土匪(集団をなして、掠奪・暴行などを行う賊)討伐に類することをなす趣旨であると誤解していたところ、有田はいよいよ事態の容易ならざるを察しつつある際に、たまたま発安里への出動を命ぜられた。
有田が発安里に到着する前後に見聞したところに拠れば、付近は他の地方に比べて状況が一層険悪にして、上流社会、特に耶蘇教、天道教は津念に暴動の中心となって京城その他に居る首魁と連絡して、3月中旬以降は行政の長その他一般人民を煽動していた。
3月28日には水原郡沙江里において数百の群衆が蜂起して万歳呼号し、警察官駐在所を破壊し、巡査を惨殺し、29日には同郡烏山において約800名の群衆が警察官駐在所を襲って逮捕している暴徒の首謀者を奪還し、駐在所、役所、郵便所及び内地人の家屋を破壊しさらに同地停車場を襲わんとする途中、守備兵と警察官が協力して解散させるなどがあった。
3月31日は発安里の市場に約3000人の群衆が独立万歳を呼号して守備隊の兵器使用によって漸く解散した。
4月1日夜には同地の小学校の校舎が放火され、付近の山上にある群衆がこれに応じて万歳呼号し、翌日2日の夜は山上80箇所に箒火を焚きて盛んに暴威を示した。
4月3日は同郡長安面等の役所を破壊し、続いて花樹警察官駐在所を襲って巡査を殺害し、歯を抜き、耳鼻を切り、関節を折り、同所を破壊・放火するなど残虐暴戻を尽くし、付近七か所の面の群衆が発安里の市場を襲って内地人を殺戮した。
ファソンにある
チェアムリの3.1運動殉国記念館








