帰りは高速バスを使ったわけだが、行きはというと、品川から特急「ひたち」に乗り込み、3月14日に9年ぶりに全線がつながった常磐線を北上したのだった。
常磐線は、東京の日暮里から茨城県の水戸を経て、福島県内の海岸線をたどり宮城県の岩沼に至る路線で、沿線には東日本大震災で原発事故の起きた東京電力福島第一原子力発電所があり、駅舎流失などの津波被害を受けた区間も散在していたことから、震災後はいわき~岩沼間で不通となり、段階的に運転を再開してきた。
今年の3月に最後まで不通だった福島県の富岡~浪江間で運転を再開し、常磐線が9年ぶりに全線開通したわけだが、現在も帰還困難区域が含まれる地域に鉄道を走らせることの意味を、住民でも関係者でもない私は理解ができないでいた。
特定復興再生拠点区域指定により、常磐線の敷地は沿線の帰還困難区域内の一部地域とともに優先的に除染が進められて避難指示が解除されているが、釈然としない気持ちが残るのは、私がよそ者であるからだろうか。
復興再生のシンボルとして鉄道の開通が地元の方々を勇気づけることは十分に理解しているし、関係者の労苦には頭が下がるが、誰かさんの「アンダーコントロール」の言葉を素直に信じられない私は、常磐線全通をどこか手放しで喜べないでいた。離れた土地の原発で発電された電力を、選んだわけでも望んだわけでもないとは言え、特に考えることもなく消費してきたことへの後ろめたさも、どこかに潜んでいるのかも知れない。
そうした蟠りを抱えながらも、常磐線でゆっくりと海岸線を辿りながら仙台に至る列車の旅を想像したら、迷いなく旅程は決まり、考える間もなく私の指はスマホで「ひたち」の座席を確保していた。
そういえば、いわき~岩沼間は乗ったことがなく、下手な理屈をこねる前に列車に身を委ね、常磐線を「感じる」ことが先決だろうと、開き直りつつ反省した。
乗り込んだ品川1245発「ひたち13号」は、品川発車時点では1割程度の乗車率で、東京、上野と歩を進めるに従って3割程度の乗り具合となったが、車内にはゆとりがあり、昼下がりの常磐線を快適に過ごすことができる。
水戸やいわきまでは何度も乗っており、沿線の景色には見覚えがあるが、今日は仙台に至る旅路の序章に感じられる。
昭和57年の東北新幹線開通までは、東北本線や常磐線に多数の特急が運転され、仙台はおろか盛岡も青森も秋田も山形も在来線で行く土地だったわけだが、現在1日3往復が運転されている品川~仙台間の「ひたち」は、そんな頃の汽車旅を想像させてくれる。
いわきを出て、いよいよ未乗の区間に踏み出し、草野、四ツ倉、久ノ浜と進むと、右手に海が見えてくる。

波は穏やかで、海辺で昼寝でもしたくなるが、久ノ浜付近ではあの日、約8メートルの津波が襲っており、福島第一原発も約30キロメートルの距離まで迫っている。
その後も午後の日差しを浴びながら単線の海岸線をのんびり辿るが、Jヴィレッジ駅を過ぎて海が少し離れると、高台に福島第二原発らしき建屋が見えてきて、弛緩した気持ちが訳もなく引き締まる。

ほどなく富岡に到着。ここから、最後まで不通となっていた、すなわち福島第一原発に近い区間に入っていく。次の夜ノ森を通過したのち、大野、双葉、浪江と3駅連続で停車。いずれも原発被害で耳馴染みのある地名だが、やはり周囲に生活の気配はなく、双葉の駅前には除染の際に出たものと思われる黒い包みが大量に並べられている。

浪江から15分ほど走って原ノ町に停まり、さらに15分ほどで相馬に到着。相馬野馬追いの素朴なタッチの看板が、さまざまなことを語りかけてくる風景で無意識に疲れた心をひととき癒してくれる。

相馬を出ると、ダイヤ上は仙台まで50分ノンストップだが、単線のため運転停車が設定され、途中で満席の上り「ひたち」とすれ違う。線路の海側は、津波の影響か更地が広がっているエリアも多く胸がつまる。
宮城県に入る直前の新地付近からは、15キロメートルにわたって、津波に流された駅や線路に代わる高架の新線に付け替えられており列車は順調に進むが、窓下には、放棄地らしき更地が農地に混じる。
浜吉田から元の線路に戻り、岩沼から東北本線に入ると仙台までは、あとひと息。すれ違う列車が増え、沿線に高層の建物が目立ってくると、仙台到着と乗り換え案内の車内放送が流れる。駅構内の手前でしばし停車したのち、夕方の杜の都にゆったり到着。品川からの4時間41分は、震災や原発を巡るさまざまに想いを致すために必要な時間だったと考えながらホームに降り立ち、常磐線完乗を心の中でささやかに祝った。