差別とはいったいなんなのだろうか。現在、#BlackLivesMatter の運動がかなり活発になっている。これは黒人に対する差別意識に対してのプロテストだ。これに付随して、日本でも自分たちの差別意識を見直そうとする声も上がっている。例えばアイヌ差別だって、部落差別だってある。確かにわかる。そりゃやっぱり差別はなくした方がいい。

 

大なり小なりあるが『差別』で辛い思いをしている人を見たことがあるし、自分もそうして人を傷つけてきたこともある。しかしながら、いまこのような意見を書いているが、自分が差別をしてないと言い切れるほど、確かな自信はない。だけど、なるべくそのような目で人を見ないようにしているつもりだし、差別は良くないとは思う。

 

#BlackLivesMatterの違和感について

 

ただ最近の #BlackLivesMatter 運動に対しては何かしらの違和感を感じる。それはなんだろうか。自分の考えは、このように運動すること自体が、差別を意識化させ、顕在化させ、さらなる差別を生むと思うのだ。つまりこの運動で黒人差別はなくならない。もし万が一黒人差別がなくなったとしても、今度は黒人差別をする人に対する差別がおきる。サカナクションの『エンドレス』とまさに同じ構図だ。もし、根本的にこの差別を無くしたいのなら、忘れることが一番なのだ。語弊があるかもしれないが、敢えて言うと、こうやって運動している限りは、差別はあり続けるだろう。差別がなくなるのはどういう状況かというと、例えば、『鼻の大きさが違う』や『爪の長さが違う』と同じレベルの違いにまで持っていくことではないだろうか。だって自分たちは爪の長さが違うからって差別はしないでしょ?こいつは爪が長いから悪いやつだ!みたいなことに近いかな。そんなことしないでしょ?つまり、違いのレベルを日常にまで持っていくことだと考える。そうしない限り差別はあり続ける。『爪が長いから悪いわけじゃないだろ!人間みんな平等じゃないか!』ということっておかしいと思う。かなり極端な例だけど。爪が長いだけで人が殺されている事実は確かに無視できないのだ。

他にどのような手段があるのか

 

言いたいことはわかるけど、「そんなんになるには、いつになるんだよ!」って問題は確かにある。速度が早く、大きなインパクトを与えられるプロテストは非常に有効な手段である。特に現在のようにSNSがこんなにも全世界を巻き込む形で普及している。だからこそ、ここまで世界中が関心を寄せているし、世界中のリーダーと言われている人たちにも伝わっているだろう。つまり私たちの周りの多くの人が行っているように、SNSで発信すること、そして理解を深めることなどがあげられる。これが一つ目だ。しかし、それでは、差別が続いてしまうのではないか?これは自分が懸念していることだ。他にもそう懸念している人はいるだろうが。アメリカの黒人に対する差別の歴史は、知っている人に言わせれば、表面上だけかもしれないが、それでも知っている。今までも黒人はプロテストを続けてきた。「I can't brathe」だって今回だけじゃない。だからこそ、他の手段があるのではないだろうか?

 

二つ目の手段は暴動だ。しかしこれもあんまりしっくりこないのだ。これに関しては、自分の理解が足りていないからなのかもしれない。ただ、このように直接的に反対することは、本当に差別を根絶しようとしているのだろうか?わかるけど、それじゃあ、どうにもならない気がしてならない。

 

他に手段がないのか?自分がざっくり思っていることを、書きたいと思う。有効かどうかはわからないし、的外れかもしれない。しかし書いて整理してみる価値はあるのだと思う。キーワードは、「手段をずらすこと」だ。黒人差別の話から少し逸れるが、多くの差別が、現代では改善されていると個人的には感じる。例えば、女性差別である。実際はまだまだ公平とは言えないかもしれない。しかし、世界的にみても確実に改善されてきているだろう。なぜなら、フェミニズム運動が起こったからである。第一次フェミニズム運動は、少し簡単に書き過ぎているが、女性の参政権を得ることが目的だった。第二次は、潜在的にあった女性への差別を変えることが目的だった。第三次は、ジェンダーやセックスに囚われないような生き方を求めることが目的になっている。細かい議論は少し置いておこう。確かに第二次フェミニズムの戦いは終わっていないという主張も理解できるし、第四次フェミニズムが始まったという見方もあることは事実ではあるが。ここで注目したいのは、フェミニズム運動は、参政権から始まったということだ。女性の参政権獲得により、女性への差別はそれまでと比べると大きく減ってきたと言える。そして、表面的には差別は減ってきたのかもしれないけれど、意識的には差別してるじゃないか。ということが問題になった。この問題はまだ解決していないといってもいい。しかし、大きな転換が起きたことを考えるに、目的と手段を同じベクトルに向けないということがもしかしたら大切なことなのかもしれない。つまり、男女平等のために参政権の獲得を目指すことと同じように、黒人と白人の平等を目指すために、プロテストするのではなく、何か違うベクトルのものを目指すことなのではないだろうか。フェミニズムにおける参政権は表面的なものであった。黒人と白人の平等のためには、もっと内面的なもので、違うベクトルを向いたものが必要だと思う。

 

中村文則「逃亡者」にこのような文があった。「君達はこのまま敗北し続けていくだろう。人権や多様性と言いながら敗北していくだろう。黒人達のために立ち上がった、キング牧師の言葉は知っているだろう?『最大の悲劇は、悪人達の圧制や残酷さではなく、善人たちの暴力である』……君たちは善人達の沈黙に負けるだろう。君達の言葉は、そのような善人達を苛々させるだけのものだから。率直に聞こう。君は自分を大衆と思っているか?君は自分を大衆であると嘘ではなく本気で認識し、さらに大衆を愛することができるか?」(p.450)この言葉には、なかなか考えさせられる。

差別をなくすには、忘れることだと言った。本当の意味でなくならないのではないかと。しかし、無意識に行ってしまっている差別もあれば、相手の立場にならないとわからないような差別もある。だから忘れるということだけで解決できないのだろうなあとも思う。

やはり「声を上げる」ことは必要で、改善したい状況になるまで続けるということが重要なのだろう。その状況になれば、その状況が忘れられるくらいに当たり前になることで、一歩ずついい方向と思われる状況へ進めていくのだろう。だからこそ最初の舵取りはとても重要になる。何に対して声を上げるべきか。これを間違えてしまえば、よくないのだろう。

しかし、間違えるとは何を持って間違えるというのだろうか。例えば、絶対的な正しさはあるのだろうか。それがわからないから人は法を作ったのだとすると、絶対的な正しさはいわゆる「神のみぞ知る」ということになる。そうなると、現在正しいとされているグローバル化や様々な文化を受け入れるということは、唯一正しい神がいるのであれば、その神を否定する人を増やすことであり、そのような世界が正しい方向に向かっているのかという疑問が出てくる。

だからこそ、冒頭の言葉は善人達の沈黙をそのような絶対的な正しさを持った人たちの苛立ちと説明したかったのかもしれない。いずれにしても難しい。