はじめに
長々とだらだらと書き連ねていこうと思う。「あの出来事にはこんな意味があった」という言葉をよく聞く。これはつまり過去に意味付けをするということであるが、これについて少し思うところを整理していきたい。過去の出来事に対して意味付けをすることは、「ある種の精神的な救い」があり、それと同時に「考え方における視野が狭くなるのではないか」という懸念があると考える。
例えば、特に精神的に辛い過去などについて、考えてみたい。以下に述べることは、良い悪いとかの議論ではなく、主観的ではあるけれどもその中でもなるべく客観的に見てみたいだけだ。
自分の辛かった過去に対して、現在から見て、「今があるのはこの辛い時期があったから」と考える人がいる。それは、ある種自分の過去を否定せず、肯定することで、自分を守っている。という感じがする。これは過去から現在まで連続で続いているイメージがある。また、現在から見て、「あの辛いことには、このような意味があった」と考える人もいる。これは過去を過去として捉えている。その上で、今から振り返って「なるほど、あの辛い過去はこんな意味だったのか」と理解する。これも同じように、過去を肯定した上で、受け止めている。これは、過去と現在が切り離されている感じ。
この二つに敢えて名前をつけてみよう。前者を「過去へのポジティブかつ動的な意味付け」、後者を「過去へのポジティブかつ静的な意味付け」としてみよう。
そうすると、自然に逆の「過去へのネガティブかつ動的な意味付け」と「過去へのネガティブかつ静的な意味付け」というものも考えられる。では、「過去へのネガティブかつ動的な意味付け」とはどのようなものか。」そして「過去へのネガティブかつ静的な意味付け」とはどういうものか。その辺りを考えてみる。そうするためには、定義付けが必要になってくるので、定義を考えていこう。まず、「過去へのポジティブかつ動的な意味付け」の定義は、過去のある出来事(もしくはそれに関連する一連の出来事)を受け入れている状態にある時、その出来事を現在の状態の一要因とするもの、としてみよう。しかしながら、このように書いてみると、「ネガティブ」なものの意味は過去を受け入れられてない時にあるときである。これは、過去を受け入れられない人がその過去に意味付けはできないのではないかと考える。つまり、過去を受け入れるということはなんらかの意味付けをした結果なのではないだろうか。たしかに過去に意味付けをしないで過去を受け入れる人もいるのかもしれない。出来事を事実として捉える。だが、それも過去を事実として意味付けしているのであるから、意味付けしているということに変わりはない。
静的と動的な意味付けについて
話がだいぶそれたが、整理するとこうだ。過去の意味付けには動的な意味付けと静的な意味付けがあるのではないか。動的な意味付けとは、過去のある出来事(もしくはそれに関する一連の出来事)が現在の状態の一要因だと意味付けることである。つまり、過去から現在へ動きのある意味付けである。次に静的な意味付けだが、過去のある出来事(もしくはそれに関する一連の出来事)を、その時点に立ち返り、その人が認識した意味付けを行うことである。これは現在と過去が分断されており、それぞれが独立した意味付けである。
ざっくりまとめてみたが、ここには大きな欠点がある。やはり物事は単純ではなく、これについて自分の考えが及んでいない人がいることも事実であり、この例では言い表せないことはたしかである。まさに二項対立にしてしまったが、なにかを考える時、たしかに整理しやすいのは二項対立なのだと思う。このことを踏まえて、非常に狭い範囲を対象にした考察であることを踏まえてほしい。
では、これら2種類の過去への意味付けは、どのような意味があるのか、以下に超主観的な意見を述べていく。
過去への動的な意味付けについて
過去の出来事を今の状態の原因とすることとも言い換えられるかもしれない。一番わかりやすい例としては、何か成功した時の下積み経験などだ。過去の辛いことが今に活きている。これは経験から来るもので、たしかにそうである可能性は高く、実証的とも言えないこともない。
しかし、同時に他の原因となる要素を排除してしまう可能性はある。これには十分注意しないといけないだろう。なぜか。過去への動的な意味付けを行うということは現在との強い相関関係が見られるということでもある。つまりその経験に基づき、これからのことにも適応させようとする可能性が高くなり、もしそうなった場合、過去の成功の原因要素を他の要素を排除した目立っているもののみにしてしまう。そこが落とし穴であるように感じる。
過去への静的な意味付けについて
あの過去はあのような意味があった、という意味付けである。過去の辛い思い出にこれを当てはめると、人を救う場合がある。特に自分の傷が癒えることもある。そして、傷が深ければ深いほどその意味付けに頼りたくなる。だからこそ、注意も必要だともおもう。たしかに何かに傷ついたとき、自分を助けてくれるのはそれよりも大きい何かである。例えば「運命」だとか、「宗教的な教え」だとか、「時間」などになるかもしれない。特に原初的で深い心の傷は癒えるのに時間がかかる。早く癒すことはとても大切であることは否定しないし、できるならそれがいい。しかし、安易に癒しを求めるのはやめるべきで、出来ることなら時間に解決してもらうのがいいのかもしれない。安易に自分の心の傷の癒しを求めるのは、時に自分を救うかもしれないが、時には自分を責めてしまうこともある。
ドラマ「僕らは奇跡でできている」の第8話で、印象深い台詞がある。『11年だからだよ。一輝とまた一緒に暮らす為に必要な時間が、11年だった。それだけのことだよ。』というおじいちゃんの言葉だが、この言葉には時間というものの重要性があると考える。つまり、自分が自身の傷と向き合えるようになるまで逃げてもいいということだ。私もそう思う。時間が解決してくれるという簡単な言葉で表すのは適切ではないかもしれないが、簡単に言うとそういう形が望ましい気がする。一概には言えないが。ただ、弱っているところにつけこもうとする悪い奴もいると聞くが、それだけではなく、例えば仮に良い奴でも傷が癒えていない時だと、その考え方に依存して、視野が狭くなる可能性は大いに考えられる。そのような有事に平静を保つのは難しいが、そのような時こそ、出来るだけ視野を広く持ち考え方などは一つに絞らない方がいいと考える。自分がそれをできるかどうかは別として。
まとめ
過去を意味付けすることについて二種類に分けて考えてみた。一つ目が動的な意味付け、二つ目が静的な意味付けである。前者は現在の状況の原因として過去を意味付けをし、後者は過去の状況そのものにのみ意味付けをする。どちらも視野を狭めないよう出来るだけ視座を高くして、その意味を捉えていくことが重要だと思う。その意味を一つにするのではなく、さまざまな角度から捉え直すことが必要かと思われる。私が実際に出来るかどうかはわからない。
また、これが正しい考察ではないし、極めて個人的かつ主観的な考察であるし、さらに自分の思っていることの3割くらいしかうまく言葉にできていないため、いつか論文等を参照して理解を深めていきたい。