自分を語る時
自分を語る時、曖昧な言葉で表現してしまいがちだ。しかもそれっぽくて、綺麗な言葉で表せれば、私たちはそれが本当っぽいと誤解してしまうだろう。しかしながら、自分という存在を言葉で表現しきることはできないと思う。そのギャップこそが人間を人間たらしめるものなのかもしれない。
今まさに曖昧な言葉を使った。人間を人間たらしめるものって何だろう。言葉で完全に自分を表現できるということは、それは自分のことを完全に認識したと同じことになるが、そんなことは可能なのだろうか。私はできないと思う。だからこそ、言葉で自分を語る時、それは自分を理解しようとしていることと同じになるのではないだろうか。だからこそ自分を語る時に大切になる。曖昧な言葉を語ると、曖昧な自分しか見えてこない。しかし、もう少し言葉に注意して自分を語ると、もう少しだけ自分が鮮明に見えてくる。これが哲学だとも言えるのではないか。そんな人いるかわからんけど。
他人について語る時
自分ではない他人について語る時、曖昧な言葉は非常に危険である。先ほどの記事でも述べたが、言葉というものは認識と密接に結びついているのではないかと考えている。つまり、他人について曖昧な言葉で語るということは、自分の中で他人を決めつけてしまうのではないだろうか。「〇〇は、ダメだ」とか「〇〇は仕事ができる」とか。これはかなり多くの場合で起こっているし、そうでしか表現できないけれど、的確に表現しようとする努力や誠実さが大切なのではないか。と感じた。
最後に
人が自分、あるいは他人、もしくはそれ以外の存在する何かを説明する時、言葉を用いる。しかし、実態と言葉での表現は解離がある。どこまで行っても埋められないギャップがあり、絶対に全てを説明するということはできない。しかしながら、そのギャップをできるだけ埋めることが実態との差を埋めていく。その差を埋めていくためには、シンプルなものから複雑なものへ、一つの視点から複数の視点へ、それまでの視座からもう一つ上の視座へ移行することが必然となるのであろう。そのためにはや必要になるのだろうと感じる。やはり自分だけではなく、自分という実態に近づけようとする姿勢、つまり自分は何なのかという問いに向かっていく姿勢、が人として魅力的な人なのかもしれない。