・「親衛隊士の日」(ウラジーミル・ソローキン著、松本隆志訳、河出文庫、2022年9月20日初版発行、1408円)
・現代ロシアを代表する作家が2006年つまり20年前に世に問うた長編小説の、邦訳です。最初の邦訳は2013年9月に単行本で出たようです。訳者あとがきによれば、2022年2月にロシアのウクライナ侵攻が始まったのを踏まえて訳者みずから文庫化を出版社に働きかけ、2022年9月というタイミングでの本書出版になったとのこと。実際、プーチン率いる今のロシア、ひいてはロシアという国と民族を考えるのに役立つ、見事な傑作だと感じました。
原題を直訳すれば「オプリーチニナの日」といったところらしいです。オプリーチニナとは、16世紀にイワン雷帝がいわゆる恐怖政治を進める際にその手足となった親衛隊員たちを指します。ただ、本書の舞台は近未来のロシアです。帝政が復活し、オプリーニチクと呼ばれる秘密警察も蘇った、という設定になっています。
そして隊員たち、すなわちオプリーチニナがどのような1日をおくったかを独白体でつづっているのですが、暴力と殺戮、略奪、薬物にどっぷりつかった彼らの生き様は、あのワグネルの隊員たちを連想させて、リアルです。
その世界は基本的人権とか個人の尊厳とかいった考え方が徹底的にないがしろにされていて、皇帝の思し召し次第で栄華を極めることにも悲惨を極めることにもなるロシアです。そして炸裂するエロとグロは笑えるほどに突き抜けた印象で、たとえば後半に出てくる「毛虫」には大笑いしました。「キモ可笑しい」という言葉を進呈したいです。
要するに、近未来のロシアは近代以前に逆戻りする、という予言的な小説なのです。
あるいは、ロシアは昔からずっと変わらず近代以前のままなのだ、と主張しているのかもしれません。ドストエフスキーやソルジェニーツィンなど、ロシアの偉大な作家たちの仕事に触れると、西欧的な近代化への憧れと反発とが同居していて、というより内部で激突していて、挙句にロシアの土俗的な感性にはまり込んでしまったように感じることがあるのですが、そうしたロシア的な感性を本書は冷徹に炙り出していると思ったりするのです。
そして2006年の原著出版後のロシアは結果として、本書の予言なり主張なりをなぞってきた印象です。だからこそ訳者は文庫化を急いだのでしょう。
ナチスが政権を手に入れる10年前にナチスが台頭する未来を描いたヨーゼフ・ロートの「蜘蛛の巣」や、ITが専制の最強の道具となる社会を今から80年近くも前に活写したジョージ・オーウェルの「1984」など、小説はときに戦慄を覚えるほどに予言的です。もちろん、科学技術の行方に強い関心を寄せるSFには一般に予言的なところがあるわけですが、焦点を科学技術に絞りすぎて人間の考え方や心情、感性、さらには社会と政治の成り行きといった面では必ずしも鋭くない傾向があります。その点、本書はプーチンをはじめとするシロビキたちの心情を鮮やかに描き出しているように感じました。
また、対外的にはヨーロッパと断絶する一方で半ば中国の属国となっているロシア、という設定は、いよいよ現実味を帯びているのではないでしょうか。
そういえば今日(2026年5月19日)からプーチンは北京を訪れるとか。近代化に背を向けた二人のプー(習近平は「くまのプーさん」と呼ばれているそうです)が手を取り合うという絵面はキモいだろうなあ……。もっとも、つい最近に北京を訪れたもう一人のプー(トラン「プー」。中国語では特朗普とか川普などと表記されます。一方プーチンは普京あるいは普丁などと表記されて、米露首脳会談は「双普会談」と呼ばれたりするようです)が絡んだら、絵面のキモさはいよいよ尋常ではありませんが。
作者は1955年生まれ。ソ連時代の末期つまりペレストレイカとグラスノスチのころから精力的に創作を続けてきたそうです。かなり悪趣味なため出版にこぎつけるには時間がかかったようですが、ソ連が崩壊したころからは人気が出て、いまや日本でもかなりの翻訳が出ています(本書の訳者によるものが多いようですが)。注目していきたい作家です。