・台湾漫遊鉄道のふたり(楊双子著、三浦裕子訳、2023年4月25日初版発行、中央公論新社、2000円+税)
昭和10年代、日本の統治下にあった台湾を九州出身の日本人女性作家が訪れ、通訳として知り合った台湾の女性とともに鉄道で漫遊して美味しいものを食べまくる……。筋を紹介すればなんとも単純ですが、なかなかに味わい深い小説です。
ふたりの主人公(作家と通訳)の関わり合い、微妙な距離感の変化が物語の推進力なのですが、小説全体を彩る最大の魅力は次から次へと登場する台湾の料理や食材です。著者によれば「登場させたほぼすべての食べ物は、現代の台湾でも味わえる」とのこと。食べる喜びを存分に思い出せてくれ、読んでいて涎が溢れてくる、恐るべきフィクションです。
一方で、小説に出てくる昭和のころの名勝の多くはいまや失われているのだとか。小説全体に虚実の境目を揺さぶるような凝った仕掛けが施されていて(奔放な女性作家のモデルは林芙美子!)、少なくない日本の読者はノスタルジーを感じるのではないかと思います。台湾の人たちにはもっと懐かしい魅力的な時空間となっているのだろうと推察します。あ~、台湾に行きたい!
……などと書いたのは2023年の7月でした。あれから3年近く。残念ながら台湾へ行く機会には恵まれず、本書のことは忘却の彼方にあったのですが、今朝になって本書の英訳が国際ブッカー賞(英訳された本に対する英国の文学賞です)を受賞したとのニュースに触れ、久しぶりに思い出しました。3年前にも書いた通り「味わい深い小説」だと評価してきただけに、とても嬉しい展開です。これを機に本書ももっと広く読まれればいいなあ、と思います。
報道によれば、もともと「中国語」で書かれた本が国際ブッカー賞を受賞したのは初めてだそうです。つまり、中国大陸や香港の作品が同賞の栄誉に輝いたことはないということでしょう。英国と香港の歴史的な関わり、あるいは中国大陸との関わりを踏まえると、台湾の作品が先に同賞を手にしたことには、いささか驚きました。
もっとも、本書のような本が中国大陸や香港から生まれる可能性は低いと思うので、受賞は妥当だと考えます。
冒頭に少しばかり紹介しましたが、本書の舞台は日本の支配下にあった頃(現地では「日治時代」などと表現するようです)の台湾です。当然のことながら著者は植民地体制に厳しい眼差しを注いでいるのですが、ただ頭ごなしに断罪する、といった姿勢ではありません。植民地支配を受けていたという事実を含め、自らの過去を自らが寄って立つ歴史として直視する。そんな姿勢が窺えるように思います。
1980年代の終盤から民主化と自由化が進んだ台湾ではいまや、日治時代を様々な角度から見つめる眼差しが当たり前になったように感じます。何年か前に台湾を訪れて驚いたことの一つは、台北駅の近くにある「国立台湾博物館」の目立つところに、日治時代の児玉源太郎総督と後藤新平民政長官の銅像が堂々と展示してあることでした。これは中国共産党の下ではあり得ないのではないでしょうか。
かつて、日本の敗戦によって日本の植民地支配が終わったと思ったら、大陸からやってきた中国国民党が一党独裁体制を敷いて実質的に新たな植民地支配体制を築き上げたという経緯があるだけに、台湾の人たちが日本の植民地支配に向ける眼差しも複眼的にならざるを得ないのだろう、と感じます。歴代の総督と民政長官の中でも児玉と後藤の二人を特に称揚しているような展示からは、いってみれば植民地支配でさえも是々非々の姿勢で評価しているように感じられました。
対して、中国大陸と香港を支配する中国共産党は、偏った歴史観に則ってあらゆる表現活動を規制しようとします。日治時代を悪として描く以外の表現を認める度量があるとは思えません。万が一、中国共産党が台湾を支配下に収めたら、本書のような仕事が陽の目を見るのは難しくなるだろう、と考えるのです。
もちろん、英国の後に中国共産党の支配を受けることになった香港でも、植民地体制に向ける眼差しは複眼的になっていることでしょう。しかし、共産党の一党支配が終わらず、むしろ大陸並みに厳しくなった今では、そうした複眼的な歴史観が表面に出てくるのは難しくなっているのではないかと推察します。近年、香港映画のパワーが落ちているように感じられるのも、そんなところに一因があるのでは、などとも妄想します。