・外政家としての大久保利道(清沢洌著、中公文庫、1993年3月10日発行、700円+)
・明治11年(1978年)の紀尾井坂の変で斃れるまで数年にわたって実質的に日本の最高指導者だった大久保利通が、外交の面でも優れた実績を残したと論じた本です。論拠となる史実の微細な検証が興味深く、読み応えがありました。
焦点が当てられるのは①征韓論②台湾出兵③台湾出兵の後始末である「北京談判」――です。
まず征韓論をめぐるドタバタは、明治の政治史に関心のある人なら周知ではありますが、これが喜劇のように面白いことを本書は鮮やかに炙り出しています。わけても明治6年の政変はドラマチックといえるでしょう。長い海外視察から帰ってきた岩倉、大久保、木戸らが、自分たちの留守中に西郷や板垣、江藤らによってなされた西郷の朝鮮派遣決定を覆そうとして失敗し、大久保と木戸はそれぞれに辞任を表明するに至ったのですが、これに困った政府のトップ(太政大臣)三条は病に倒れ(仮病説あり)、そこでトップ代行に就いた岩倉が天皇に働きかけて西郷派遣の決定をなきものとし、それを受けて今度は西郷や板垣らが下野する……こんなドラマはよほど下手な脚本家でないと思いつかないのではないでしょうか。
歴史の綾、というべき細部がまた、実に興味深く感じられます。たとえば、幕末に人斬りとして鳴らした桐野利秋が征韓論へ異論を唱えるものを「斬ろう」と公言したのに対し、大久保は「まず自分の首を斬れ」と応じたそうです。
一連の経緯から窺えることの一つは、当時の大久保の地位は決して磐石ではなかったことです。いったんは西郷らに敗れて辞任を表明しながら、「秘策アリ」として局面を転換した、大変な「粘り腰」に驚かされます。
2番目の台湾出兵は、明治6年の政変から4ヶ月足らずの後、明治7年2月に政府内で実質的に決定されました。そのための文書は大久保と大隈が用意したものでした。征韓論に反対する論拠として「内治優先」を掲げていた大久保の豹変ぶり、というか二枚舌には、唖然とする人が少なくないのではないでしょうか。実際、征韓論への反対で大久保と共闘した木戸は台湾出兵にも反対して、またも下野したのです。
この辺りの大久保の心情はいまひとつわからないのですが、本書の著者・清沢洌は「大久保の現実主義」の表れと好意的に解している印象です。明治7年1月の喰違の変(岩倉暗殺未遂)など不平士族の暴発がいよいよ深刻になっていて外に目を逸らす必要がいや増していたことや、琉球を日本の一部とするうえで有利に働く可能性があったこと、さらには国際世論の面で好意を得られる可能性もあったことなどが、「現実的」判断の背景にあったというわけです。
東大教授だった宮地正人さんは「幕末維新変革史」という本で、大久保の政治スタイルを「機会主義的」と形容していますが、征韓論から台湾出兵へと至る流れからは、対外政策の面でも機会主義的だったといえるでしょう。ただ、大久保の言動をみていると、政治の世界において機会主義的であることは、現実主義者であれば当然だとも思えます。
かのビスマルクは「政治は可能性の芸術だ」と指摘したといわれますが、まさに貴重な可能性を捉えて自らの目標実現に注力するのが政治家であり、見込みのないことにあえて精力を注ぐのは活動家や思想家、あるいは狂人ということになるのでしょう。加えて、清沢も強調しているように大久保の「粘り腰」は大変なもので、そんじょそこらの機会主義者と同列に扱ってはならないと、深く感じ入った次第です。
ともあれ、いったんは決定した台湾出兵でしたが、大久保率いる明治政府は直前になって中止しようとしました。木戸の反対に加え、国際世論が思ったより厳しいことに気がついて慌てたらしいのです。これに対しすでに出征の途次にあった司令官・西郷従道(隆盛の弟)は半ば独断で兵を進めました。大久保もこれを追認したのです。追認せざるを得なかったともいえるでしょう。
後の関東軍の暴走を連想させるような展開で、近代日本においては明治の早い段階から軍の統制に問題があったことがよくわかります。まあ21世紀の自衛隊にあってさえ田母神事件が起きたり、元空自幹部の首相官邸関係者(尾上定正首相補佐官らしいです)が核武装すべきだと語ったりしたわけで、文民統制は永遠の課題かもしれません。
で、この辺りの国際世論の動向とも関わって不思議な役割を果たしたらしいのが、チャールズ・ルジャンドルという人物です。もともとフランスに生まれ育ち、やがて米国に帰化して南北戦争で北軍の士官として活躍し、1866年以降は米国の官吏として中国に赴任して台湾に関わり、1972年以降は日本政府に雇われて強硬な台湾政策を唱え、1890年からは李氏朝鮮の高宗の顧問をつとめて彼の地に没しました。なかなか派手な国際浪人といった趣ですが、日本の対外政策がこうした人物に影響されたらしいところは、興味深く感じました。
ルジャンドルの名前には、かねて風太郎の「エドの舞踏会」で親しんでいました。ただ本書によって、あの頃の日本で発揮した存在感の大きさに初めて気がつきました。なお、「エドの舞踏会」でのルジャンドルは、日本人妻である池田いと(いと子、この女性の運命がまた数奇というかなんというか……)との関係に悩むヒト臭い人物となっています。風太郎らしく、この夫婦の間に生まれた男子がのちの名優・十五世市村羽左衛門となる史実を踏まえた伝奇的な物語を仕立て上げていて、実に読み応えがあります。
同書で風太郎も紹介しているように、羽左衛門がルジャンドル夫妻の子であるという事実が広く明らかになったのは、里見弴が1955年に発表した「羽左衛門伝説」という本による、とされています。ただ、本書は出版された1942年の段階ですでに「声楽家関谷敏子の母愛子はル・ジャンドルの実子に当り、俳優羽左衛門とも関係ありといわれる」と指摘していました。こうした細部がまた歴史書の面白さです。
3番目の北京談判は、台湾出兵の後始末をめぐって大久保が自ら北京に出向き清政府の高官たちと繰り広げた交渉のことです。大久保が北京に向けて東京を発ったのは明治7年8月6日で、北京着が9月10日。交渉の決着は10月31日で、翌11月1日に北京を発ち、台湾に立ち寄って台湾派遣軍の撤退への道筋を確認し、東京に戻ったのは11月27日だったそうです。交渉そのものでおよそ50日、前後の移動なども含めると4ヶ月近く東京を留守にしたのでした。当時の大久保が明治政府の第一人者、事実上の首相だったことを踏まえると、このあたりの時間感覚はちょっとした驚きではあります。
そしてこの北京談判がまた、征韓論のドタバタに勝るとも劣らないドラマチックな展開を見せたのです。始まってから1カ月半ほどが経った10月23日に話し合いは決裂し、日清開戦の覚悟をもって大久保は週明けの26日に北京を離れる決断を下しました。週末の24日と25日には、北京の各国公使らへの挨拶回りを済ませたのです。われわれが知る実際の歴史より20年も早い日清戦争が、このときほとんど現実化しかけたわけです。
ところが、25日の日曜日の夕方になって、英国の駐北京公使トーマス・ウェードの仲介によって、事態は妥結へと急展開したのでした。この辺りもいまひとつわかりにくいところだと感じたのですが、要するに英国の外交官の介入のおかげだったとはいえるでしょう。なお、ウェードは中国語と中国学の研究者としても歴史に名を残した人物です。
ともかく、日本側も清の側も戦争は避けたかったことが根底にあったのは間違いないにしても、なぜあんな展開になったのか、やっぱり不可解としかいいようのないところがあります。本書は大久保の日記や書簡をはじめとする日本側の膨大な史料だけでなく、英国の外交文書なども渉猟している力作なのですが、清の側の政策決定の動きが全くわからないため、やはり歴史のダイナミズムを十分に捉えきれていないと感じます。本書が書かれた1940年代にはおそらく中国側の史料をほとんど利用できなかったのではないかと推察できるので、やむをえないところでしょう。歴史書、とりわけ外交史の分野では不可避の限界というべきでしょうか。
さすがに今では中国側の史料もある程度は利用できるようになっているので、その気になれば本書を補うことは可能なはずです。何かいい本はないかなあ……。
本書を読んでへえ、と感じたのは、フランス出身の法学者ギュスターブ・ボアソナードがいわば大久保の知恵袋として北京に同行したことです。大久保が国際法を重んじていたことを示す例なのですが、ボアソナードといえば日本の法律や法学の発展に絶大な貢献をしたことで有名(彼が起草に関わった旧民法典は「民法出でて忠孝滅ぶ」などと批判され、最終的に施行されずにお蔵入りしたことで知られています)なだけに、北京での活躍には意外の念を覚えました。
本書はまた、大久保の日記などを踏まえてその真意は清との和平、友好にあった、と強調しています。それなりに説得力は感じますが、決して単純な平和主義でなかったことも明らかでしょう。本書によれば木戸でさえ維新直後の頃は征韓論者だったとのこと(吉田松陰の影響があったかもしれません)で、あの頃の指導者の多くは外征を好む傾向があったようなのです。京大の高坂正堯教授が60年も前に中国を論じた際に指摘していたように、革命はしばしば国家・民族の力を解放しましたし、ときには対外的な膨張も伴ったわけですが、明治維新も典型だったといえましょうか。
興味深いのが、大久保に先立って清側と交渉していた柳原前光(公使)や大久保に先立って現地入りした樺山資紀ら、大久保の周囲に強硬論者が多かったことです。樺山など「寧ろ三千万の生霊を賭すとも(中略)戦端を開くに如かず」と当時の日記に書いていたとのこと。日本人全員の命をかけて戦おう、という凄まじい主張です。いやはや。
大久保に同行した随員のなかに岩村高俊がいて、この人が北京談判でどういう役割を果たしたのかはよくわかりませんが、粗暴な人物だったことはよく知られています。戊辰戦争の際に長岡藩の河合継之助を反政府側に追いやり、明治7年1月に佐賀県令(知事)となって間もなく佐賀の乱を誘発したと評されているのです。
樺山といい岩村といい、大久保という人物はいわゆる「猛獣使い」の達人だったのかなあ、などと考えてしまいました。この樺山がのちに初代の台湾総督になるのですから、歴史の綾は微妙です。
本書の著者は戦前の著名なジャーナリストです。軍国主義が猛威を振るうようになると軸足を外交史の研究に移したとのことで、本書はその成果ですが、やはりジャーナリスティックな視線が感じられます。本書が最初に世に出たのは1942年ですが、内容そのものは1941年10月に出来上がっていたらしいことは、序文の日付から窺えます。つまり、真珠湾の2ヶ月ほど前には書き終えていたわけです。そのタイミングを勘案すると、本書が当時の日本政府・社会の好戦的な傾向に対する警告だったことは明らかです(結果的に間に合わなかったといえますが)。わけても著者が、明治の政治家は決して責任逃れをしなかった、と繰り返し訴えているのは、昭和の政治家たちへの厳しい批判でしょう。そしてまた、現代にも通じる指摘でしょう。
著者・清沢洌は1945年の5月21日に亡くなったそうです。東京大空襲などを経て敗色はすでに濃厚になっていた頃であり、実際、3ヶ月も経たないうちに日本が降伏したのは、周知の通りです。清沢はどんな思いを抱いて最期を迎えたのでしょうか。今更ですが、彼が残した「暗黒日記」を読みたいなあ、という気分になりました。
なお、手元にある本書の中公文庫版は1993年の出版でしたが、現在は絶版になっているようです。その代わり、2023年にちくま学芸文庫から装いも新たにお目見えしたようです。150年以上も前に書かれた日記や手紙をふんだんに引用するなど、現代人にはなかなか歯応えのある本ですが、こういう本が文庫で手軽に読めるというのは素晴らしいことだと思います。中公や筑摩に感謝です。さらにいえば、大久保の日記なども手軽に読めるようになればいいなあ、と思います。