・崩れゆく絆(チヌア・アチェべ著、粟飯原文子訳、光文社古典新訳文庫、2013年12月20日初版第1刷発行、1120円+税)
・英国の植民地だった時代のナイジェリアで生まれ育った作家が、ナイジェリアが独立する2年前に、宗主国の言語(つまり英語)を用いて宗主国(つまり英国)で発表した、長編小説です。イボ族と呼ばれる部族の村落共同体を舞台に、英国による植民地支配が浸透する前の人々の暮らしぶりを丹念に描き、さらに西欧文明とくにキリスト教の浸透にともなって人々の暮らしがどう変わったかを鮮やかに示していて、興味深く読みました。
訳者の紹介によれば、本書は「しばしばアフリカ近代文学の原点、あるいは起源として位置づけられ」ているそうです。そして本書でデビューした作者は「アフリカ近代文学の父」と呼ばれてきたとのこと。これまでアフリカの文学作品をほとんど読んだことがないので、そう言われれればそうかな、と思うしかないわけですが、読んでみてとにかく面白かったのは確かです。
一つには、植民地化以前のイボ族の人たちの生活に惹かれたからです。男性、とりわけ戦闘能力に優れた男性が大きな権威を持ち、複数の女性を妻にする。土着の神々を奉じ、占いの結果によっては共同体の意思として殺人も辞さない。双子は不吉なので村落の近くの特殊な場でいわば「処分」する。経済面で最も重要なのはヤム芋の栽培を柱とする農業で、地元で製造できない銃が出回るなど相当に広域的な交換経済も浸透しているらしい……。
もちろん、1930年生まれの作者は植民地化以前の状況を目にしてはいないはずで、先輩たちの話や史料などを踏まえて想像で描いたのでしょう。訳者も注意喚起しているように、民俗誌的な読み方をすることには慎重でなければならないでしょう。そうはいっても、いかにも前近代の社会の姿を説得力をもって描き出した文章は、読み応えがあります。
英国の植民地支配の体制が地方の村落共同体に及んでいった様子がまた、興味をそそります。「分割して統治せよ」という例の格言を実行していたことを、浮き彫りにしているのです。必ずしも暴力的ではないのですが、圧倒的な武力を背景に植民地体制への抵抗を着実に排除する手法は、わかりやすいといえばわかりやすいと感じました。
何より印象的なのは、キリスト教の布教を軸としたソフトパワー面の侵攻です。伝統社会の象徴ともいえる存在である主人公と、キリスト教に入信した主人公の息子の決裂をはじめ、かつての共同体にあった様々な「絆」が「崩れゆく」のです。
ちなみに、原著のタイトルは Things fall apart です。「絆」だけでなく、もっといろんな「もの」が崩れていった、というのが著者の認識でしょう。
もっとも、著者が伝統社会を理想化したり美化したりしているわけではないことには注意が必要です。主人公の息子が父親の反対を十二分に予想しながらキリスト教に入信するのは、伝統社会の前近代性、残虐への反発が要因となっています。
あえて一般化すると、本書は伝統社会と西欧文明の衝突を描いている、といえるでしょう。欧州以外のほとんどの地域が大航海時代以降に経験した、極めて普遍的な現象の実像に迫った、という印象です。いわゆる「ウェスタン・インパクト」がテーマだとみなせるのです。
まあ、「ウェスタン・インパクト」という表現はいかにもアジアに視座を置いている印象で、アフリカなら「ノーザン・インパクト」、新大陸なら「イースタン・インパクト」と呼ぶべきところでしょう。この術語はこれでいいのか、という疑問も抱いてしまいました。ともあれ、たとえば藤村の「夜明け前」など日本の近代小説の多くとも、本書は根っこのところで繋がっている、といっていいのではないでしょうか。
もちろん、本書と「夜明け前」は随分と違っています。タイトルの響きそのものが、本書の場合は悲劇的な印象があるのに対し、「夜明け前」は前向きの希望を示唆するものになっていると感じます。その違いについて考えることもまた、興味深い作業となると思います。