・国際指名手配(ビル・ブラウダー著、山田美明・笹森みわこ・石垣賀子訳、集英社、2015年6月30日第1刷発行、2200円+税金)
・ロシアのプーチン大統領を風刺する絵画で知られたセミヨン・スクレペツキー(本名ロベルト・クゾフコフ)が6月15日、ポーランド東部にある自宅の近くで殺害されました。犯人の名前や居場所も含めて真相は今のところ藪の中のようですが、プーチンの手先による犯行だろうと考えるのが自然でしょう。で、遅まきながら読む気になったのが、本書です。
内容を要約すれば、ソ連崩壊後の混乱とくに「世紀の大安売り」に乗じてロシアでボロ儲けに成功し、やがてプーチン政権から敵視されるようになり、ロシアからの攻撃に対抗し反撃さえしてきた米国出身の金融マンが、波乱万丈の経緯を自ら綴ったノンフィクション、といったところ。これがもう、血湧き肉躍る面白さです。
疾風怒濤、曲折浮沈、大起大落、諸行無常、七転八倒、泡沫夢幻、抱腹絶倒、奇々怪々、乱七八糟、魑魅魍魎、懊悩煩悶、百折不撓、鬱鬱勃勃、阿鼻叫喚、怏怏鬱鬱、人生楽ありゃ苦もあるさ……なんて言葉が次から次へと浮かんでくる始末。原著も邦訳もともに今から11年以上も前に世に出た本ですが、もっと早く読むべきだった、と後悔しております。
まず驚いたのは著者のバックグラウンドです。祖父のアール・ブラウザーは1930年から1945年までアメリカ共産党の書記長をつとめ2度も大統領選挙に立候補した政治家でした。その3人の息子(つまり著者の父と叔父たち)は揃いも揃って著名な数学者になったそうです。さらに著者の母もまた数学者でした。著者は「政治的には左派の学者夫婦のもとに生まれ」育ったのであり、兄のトーマスは世界的な素粒子物理学者なのだとか。
そんな「神童でなければ家族の中に居場所がな」かった家庭で「すっかり脱線し」た著者は高校生活の終わりごろ「スーツにネクタイを締めた資本主義者になる、と決めた」そうです。両親を困らせ怒らせようとした、というのは、いかにも子供の考えそうなことで微笑ましいですが、恵まれた数学の天性のおかげかその結果は目覚ましいものとなったのです。
スタンフォード大学のビジネスクールに進んで「生涯で最高の2年間」を送った著者は、進路を考えるうちに祖父との因縁あさからぬソ連・東欧圏を仕事の舞台として考えるようになり、やがてソロモン・ブラザーズで若くして対ロシア・ビジネスの責任者となりました。ついには自らエルミタージュ・キャピタルという投資会社を立ち上げて、1年で600%の投資収益といった驚異的な成功を収めたのです。その間には、1996年の大統領選に際して、再選を目指すエリツィンとオリガルヒの「悪魔の取引」があり、著者は大いに助けられたようです。
アジア通貨危機が波及した1998年のロシア経済危機で一転して苦境に陥ったものの、2000年を過ぎたあたりから巻き返し、特にガスプロムの株で大変なボロ儲けを果たしました。こうした成功はオリガルヒの反発を招き、およそ合理的とはいえない嫌がらせを著者は受けるようになりました。一方で著者は、オリガルヒたちがとんでもない安値で国有資産をいわば横領したことを暴いて、さらに彼らを怒らせたのです。実はこの暴露で著者は大儲けできる仕組みであり、さらにオリガルヒを膝下に組み敷きたかったプーチン大統領にとっても渡りに船、棚ぼただったということです。
が、オリガルヒに対する支配を確立するとプーチン政権は著者を敵視するようになりました。著者たちがオリガルヒの悪事を暴いたことは結局、プーチン政権の暗部を暴くことにもなったからです。そして――。
このあと著者はビジネスマンというよりは社会活動家としてとして大いに活躍することになります。特に力を注いだのは、事実上プーチン政権によって殺害されたセルゲイ・マグニツキー(エルミタージュ・キャピタルの顧問弁護士)のための活動、マグニツキーの死亡に関与したロシアの官吏に対する制裁を米国政府に義務付ける「マグニツキー法」の制定でした。本書の後半は、この法律制定をクライマックスとする、これまた見事な成功物語といえるでしょう。ロシアのオリガルヒや役人たちの人物像、英米の政治家や官僚たちの人物像など、なかなか味わい深い描写と分析がまた、読ませます。プーチン政権が得意(?)とする国外での暗殺からどう身を守るか、といった具体的な取り組みがまた、興味深いものとなっています。
個人的に最も胸に響いたのは、マグニツキーが勾留中に病気を患い、治療を受けられずに苦しみながら亡くなるところでした。アレクセイ・ナワリヌイの最期もこんなんだったのかも、と連想してしまったのです。ガンを患いながら保釈を認められずに亡くなった大川原化工機の相嶋静夫さんのことも、思い浮かべました。
特に切なく感じたのは、病気を訴え治療を求めるマグニツキーに対し役人が「どうせ嘘だろう」といって突っぱねる場面。名古屋の出入国在留管理局の収容所に収容されていたウィシュマ・サンダマリさんが2021年、体調不良を訴えていたのに適切な治療を受けられず亡くなった事件を思い出したのです。わが国の司法・法務を司る方々は、プーチン政権の役人たちと大して変わらないのでは、と憤りを新たにしました。
とにくかくこの本の面白さには折り紙をつけられます。原著が出てから3ヶ月で見事な邦訳を世に送り出した役者たちの力技にも感動です。それだけに、出版直後に手に取らなかった怠慢は、我ながら痛恨事だと感じております。