今日10月27日のHNKニュースで食品安全委員会 が食品中の放射性物質の健康影響評価について確定し、(暫定ではない基準値を決める)厚生労働省への通知が行われたことを知りました。


~食品に含まれる放射性物質の食品健康影響評価について~

※ 放射性物質の食品健康影響評価については、7月26日の第9回「放射性物質の食品健康影響評価に関するワーキンググループ」において、評価書案がとりまとめられ、同日の食品安全委員会へ報告されました。その後、パブリックコメント(7月29日~8月27日)を経て、本日(10月27日)の食品安全委員会において評価書を確定し、厚生労働省へ評価結果を通知しました。(食品安全委員会 ホームページより)



8月の時点では、外部被曝と内部被曝の合計が、

年100mSVを超えないように、とのことだったのですが・・・

詳しくは→「生涯被爆100ミリ基準」案から考えたこと

100mSV/年は、「被曝により発がんリスクが0.5%上がる」とされている値)


今日の発表では、 内部被曝だけで上限100mSV/年になっているようです。

つまり、当然、外部被曝合わせると、100mSVを超えることになります。


本来なら食品安全委員会は、食品のつまり内部被曝だけの健康影響評価を行う機関です。外部被曝と合わせてとなると、生活地域によっても違ってきます。年齢別に基準を出すだけならまだしも、外部被曝が絡むと非常に複雑になるだろうと想像はしていました。


でも、だからと言って、内部被曝だけで100mSV/年として本当に良いんでしょうか?


科学的根拠に基づく食情報おススメのサイト の記事で紹介した

松永和紀さんの文科省が、食品安全委員会に悲痛な質問状 を、もう一度読み直しました。


う~ん、これはじっくり考えるべきことのようです。

さらに情報を集めたいと思います。


(追記)

この件については非公開の事前記者レクがあったそうで、

松永和紀さんが本日(10月28日)記事を書かれています。

彼女の食品安全委員会に対する信頼は大きく崩れたという内容です。

食品安全委員会、非公開の事前記者レクの意味


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昨夜書いた、理屈と膏薬はどこへでもつく という記事は、

(日本語のことわざ集として)犬棒カルタっていいよ~!てことで無理やりまとめてしまいましたが(^_^)


今日は、私のライフワークであり、このブログのメインテーマである

(なんだか大げさで、すみません(^_^;))

科学コミュニケーションというテーマで、考えていることをもう少し書いてみようと思います。


昨日の記事で私は、

「日本人の理屈抜きで白黒はっきりが好きな民族性、またその均質性への依存が、言わなくてもわかるだろうという文化を生み出したのかもしれませんね。」


と述べましたが、逆に、こういう文化の中に生きているからこそ、日本人は、理屈抜きの白黒はっきりが好きで、他の人も同じ感覚であることが当たり前、なので、わざわざ言葉では表現しないのだ とも言えますよね。


では、なぜ、日本はこういう文化なのでしょうか?


理由の一つが、その自然観にあるではないか?私は考えています。

原発も自然の一部?理系家族 会話その4  

(内容的に、この記事の続きにもなるかな)

にも出てきた「人間も自然の一部」という東洋的な自然観ですね。


ご存知のように、近代的な科学技術は西洋で生まれ発達しました。

自然は神がお創りなったものなので、その自然の法則を見出すことは神様をほめたたえること。それは、神に選ばれしわれわれ人間の使命でもある。」 

というようなキリスト教的自然観から科学が生まれたことは忘れてはならない歴史的事実です。


どんなに複雑な事象であっても、神が創ったものだからきっと何らかの意味があるはずだと考えるのです。

因果関係をとことん追求、そして追求すればするほど、さらなる未知の世界が広がるわけですが、こういう、未知の部分が残る白黒はっきりできない知見でさえも意味がある(神が創ったものだから)と考えます。

だからこそ、どの程度の曖昧さなのかを他者にしっかり伝える言葉、コミュニケーション技術が発達してきたのではないか、と私は推測しています。


一方、「人間も自然の一部」という見方だと、上の※~※のような感覚、極端に言うと、理屈はいらん、そのまま潔く現実を受け入れよとなってしまいます。(結果だけを見て、問答無用!とバッサリ斬ってしまう(><;))

曖昧なもの、複雑なものについては、個人の主観的表現で感情として他者と共有することの方が、この文化では大事なので、肝心の、どの程度曖昧なのかという量的判断には、なかなか馴染めません。


しかし、好む好まざるに関係なく、今後日本は、放射性物質とは長い付き合いになりそうです。だから、少しずつでも、度合い、量で捉えるという科学的なモノの考え方に慣れていく必要があると思います。そうでないと、無暗に不安に煽られたり、また、楽観的になり過ぎて失敗したりと、メディアなどに振り回されてしまいますから。


心穏やかに、幸せに生きる


そのためには、どういう考え方をするのが良いか、そして、それを人に伝えるためにどんなコミュニケーション技術を磨けば良いのか、・・・こうやって、いろいろ考える続けること自体が私の生き甲斐なのかもしれません。


ブログを読んでくださる方々には改めて感謝いたします。

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犬棒カルタ あす楽対応
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お世話になっているバイオリンの先生のお子ちゃまへ、クリスマス・プレゼントに、どうかな?と考えているのが、この犬棒カルタです。


ちなみに、その昔、わが家の娘は、2歳半ごろだったかな?文字も読めないのに、いつのまにか、絵を見てすべてのことわざが言えるようになってました。「うちの子って天才だわ!」なんて、子どもの能力が無限のように思えた幸せな時代です。


中でも、娘が好きだったのが

 「としよりのひやみず」 

お爺ちゃんが水浴びしてる絵がおもしろかったのかも。


今、娘に聞いてみたら、自分が、そんなに覚えていたってことをあまり覚えていないようです。(ガッカリ)

もちろん、ことわざの意味がわかるようになったのは、ずっと後になってからです、人生経験が足りないので、いまだによくわかってないものも結構あると思います。

私自身も、改めて思い出してみましたが、ふと気になったのがこれです。

理屈と膏薬はどこへでもつく

(りくつとこうやくは、どこへでもつく)


意味は、膏薬が体のどこにでもつけられるように、どんなことにでももっともらしい理屈をつけられるということ、ですね。


これって、どちらかというとネガティブな使われ方をするのではないでしょうか?理屈なんて、あとからどうにでも付けられるのだから、どうだっていい。結果は変わらないのだから、黙って現実を受け入れよ! 言い訳なんかするな! っ感じの、潔さを美徳とする日本人の感覚でしょうか。


日本語では、主語がなかったり因果関係のはっきりしない言い方が多いのは、こういう感覚のせいかもしれませんね。英語だと、主語がないと文章にならないし、becauseだらけ、言い訳がないと成り立たない言語といえます。


日本人の理屈抜きで白黒はっきりが好きな民族性、またその均質性への依存が、言わなくてもわかるだろうという文化を生み出したのかもしれませんね。


その結果、日本では、危険性の認識など「複雑さ」「曖昧さ」を言葉で伝える技術が遅れてしまったのかな、と感じます。


考えていることが複雑だと、それを表現する複雑な言葉や技術が必要ですが、

考えていることが単純だと、そういう言葉や技術は必要ないですものね。


まぁ、単純には単純の良いところもあるのですけどね。

ことわざには、その単純さの中に、人それぞれの人生に引き寄せた複雑な味わいがあるとは思います。

幼児から老人まで楽しめる犬棒カルタはおススメよってことで、なんとかまとめておきます。


追記 ※言葉


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"devil's advocate" は「(議論を活発にしようと)わざと異議を唱える人」の意味で、 "play [be, act as] devil's advocate" は「(議論で)(相手の論理を確かめるために)故意に反対の立場から議論する」という意味です。
(みんなで学ぶNHK語学フレーズより)

play devil's advocate
to pretend to be against an idea or plan which a lot of people support in order to make people discuss it in
more detail and think about it more carefully
Usage notes: The 'Advocatus Diaboli' was a person employed by the Roman Catholic church to argue against someone being made a saint (= someone given the honour of being called Saint by the Roman Catholic church). (The Free Dictionary By FARLEX より)

議論に慣れている場合はそうでもないかもしれませんが、一般の日本人的感覚では、こういうことをする人に対しては「いちゃもんつける人」とか、ときには「空気の読めない人」など、ネガティブなイメージを抱くのではないでしょうか?まぁ、テーマの種類、内容やそのメンバー、さらには「提案する人のモノの言い方などにもよるのですけれど。(個人的には「言い方」って結構大事と思ってますが)

自分の意見に、いちゃもんをつけられた時、「そんなことはない、自分の言うことが絶対だ!」と、頭からいちゃもんを撥ねつけるような態度をとってしまう人は、単に「思い込み」に凝り固まっているだけの可能性がありそうです。

本当に自分の意見に自信があるのならば、たとえいちゃもんに聞こえる意見であっても、

※一旦は耳を傾け、反対の立場で自分の意見について考えてみる

という余裕があるはずです。(ふりじゃなくて本当にDevil ないちゃもん?と感じた場合も、一旦スルーして様子を見た方がいいですし)

自戒を込めて書いていますが、もし、自分の意見を単なる「思い込み」でない、
「論理の明確なもの」にしたいのならば、※のようにすべきなのです。

先日、某掲示板での議論を読んでいて、せっかくdevil's advocate を役割をしているのに、他の方々に理解されず、気の毒なことになっている人を見かけたりしたもので、この記事を書いてみました。

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ついさっき更新したAFPのニュースで、そのタイトルから、ひょっとしたら?と思ったら、やっぱり!金井良太 さんのお名前が出ていました。


昨年6月、私の記事、個性のわかる脳科学 で、このタイトルの彼の著書を紹介させていただきました。
そこで、まず私は、彼のブログ『脳と意識の最先端を目指そう』は、大変面白いので、是非読んでみてね、と、みなさんにおススメしましたが、彼のブログは昨年の暮れ以降更新はされていないようで、ちょっと寂しく思っていました。


なので、久しぶりにお会いしたような、

(勝手に)嬉しい気持ちに浸っております。(笑)


このニュース記事の中で

2年前、英オックスフォード大(Oxford University )の神経学者、スーザン・グリーンフィールド(Susan Greenfield )氏がオンラインでの友人作りは若者に大きな悪影響を与えると主張して論争を巻き起こした。


とありますが、この辺については、金井さんのブログ記事

ソーシャルメディア時代の新しい知性 をご覧になると、わかりやすいと思います。


その動画の部分はこちら↓

Is Facebook damaging your brain?
http://www.youtube.com/watch?v=DLopkYX5B54&feature=player_embedded


いや、悪いことばかりではないかも・・・まだ、はっきりわからないけど。

とにかく脳の構造が変化していることたしか。

というのが、金井さんたちの今の立場ってことなのでしょう。


それにしても、面白そうな研究分野ですよね。


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