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UCLA卒業、バブル時代商社でサラリーマンを経験し、故郷上田でビンテージバイクの輸入販売をはじめ現在に至る。古き良き時代のJapanese Vintageバイクの魅力を配信中!!

ダウンダウンダウンダウンダウン2016年4月5日(6年前)

★★★NHK大河ドラマが決まったので、六紋銭に付いて、少しお勉強!!★★★



*NHK大河ドラマをより楽しく見るために少しお勉強!!

 

 

 
 皆さん、こんにちは、BRUINのNew Weekがスタートしました!! ここで毎日行っているアクセス解析で、多くの方が、六文銭に付いて説明したBRUIN Blog(2014年5月21日)のこのページを遡ってご覧になってくれたことが分かったので、大変嬉しく持って再度アップする事にしました。

 やはり大河ドラマの影響力は凄い物だと、あらためて感心した次第です!! 堺雅人さん演じる真田信繁が初めて、六文銭に付いて語り、眞田家の二つある家紋の一つで、常に命がけで戦う姿勢でいる事が込められた家紋と語っていましたね。また、初めてドラマの中で六文銭の登り旗が登場し、感動しましたね!!多分、多くの方もそう感じた事だと思います。




皆さん、おはようございます。今朝の上田は、雲は多いですが晴れています。今日もこれからレストアに集中しますね。さて、上田市(行政)も2016年NHK大河ドラマ「真田丸」が決まった事で、これから今まで以上に忙しくなりそうですが、日本中の地方行政機関にいい見本になるような活動をしてもらいたいですね。話は、幸村公の紹介もブリーフですがしたので、BRUINのLOGOにもなっている”六紋銭”に付いてお勉強しましょう。何せ、400年前の当時の事をしている人はこの世にはいませんので、いろいろな伝説、作り話、歴史家の解釈、各関係地域によっての独自の思惑がありますので、この説が正解で、これが正しいと言うものではありませんのでね。。

*下記六紋銭は志紀長吉神社に今でも大切に保管されている、大坂の夏の陣の前にこの神社に幸村が奉納した軍旗です。私も、この神社に実際行って、この貴重な本物を特別に見せてもらいました。

志紀長吉神社の社宝

慶長20年(1615)大坂夏の陣に、真田幸村が戦勝を日蔭大明神(当神社)に祈願の際、神社の馬場にて休息しました。この時に軍旗と刀剣を奉納されましたが、刀剣は終戦後没収、軍旗はそのまま神社で保存しています。また、幸村休息所の碑は、大鳥居そばに建立されています。
六文銭軍旗  (真田幸村奉納)
赤地に白の六文銭の旗は、あまりに有名な真田幸村の軍旗。「大阪夏の陣図屏風」に、その旗が見られる真田の赤備えとして恐れられました。六文銭(六道銭)は三途の川の渡し賃、つまり通行料とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものです。 真田氏は家紋に六文銭を用いることで、戦争や日頃の駆け引きについて、死をもいとわない不惜身命の決意で望んでいることを示していたと言われています。

軍旗一般公開:平成24年5月4日 午前10時~午後4時

大鳥居そばの幸村休息所
豊臣氏を滅亡へ追いやった大坂夏の陣は、慶長20年(1615)5月6日豊臣方は、道明寺の戦い・八尾の戦い・若江の戦いに苦戦を強いられた。道明寺まで進ん だ真田幸村は、現在の平野区長吉あたりまで退却しひと休みし志紀長吉神社に戦勝を祈願しました。この時に幸村は神社に六文銭の紋章が描かれた軍旗と刀を奉納しましたが、刀は第二次世界大 戦後に没収された。当社大鳥居のそばに真田幸村休憩所の碑が建っている。右にある写真をクリックしていただくと表面、裏面の両面をごらんいただけます。
画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
拡大画像の右側をクリックしていただくと別画像も表示されます。




住所:大阪市平野区長吉長原2-8-23

 

上下とも、俗に言う”当時物”の本物です!! どうですか?やっぱり当時物は違うでしょ!! 400年ほど前に使用された歴史の重みを感じますね。。

 

上田市立博物館


いきなりだが、お宝その1

 

真田昌幸父ちゃんの鎧。本物だよ
佩楯(はいだて:足を守る部分)の六文銭がかっこいい。
そして注目してほしいのが手甲の六文銭。ここから淳二の必殺技が撃ちだされるのだ(ほんとか?)

そう、真田昌幸の鎧である。

そしてこの鎧で目に付くのが佩楯と手甲に打たれた六文銭。

淳二の着ている鎧のデザインはこれがモチーフなのだ。

つまり、手甲の六文銭から『表裏比興拳・六文銭気弾!』を撃ち出す、淳二の必殺技はこの鎧があったから生まれたってわけ。

「…すげぇ。こりゃぁあれだよ。オレのファンは必見だよ」

まぁ、お前のファンでなくても真田ファンにはお宝中のお宝だ。

こんなのが何気に置いてあるんだから、とんでもない博物館だ。

そして次なるお宝がこれ。

 

真田父子犬伏密談図。

直江状の挑発に乗って上杉征伐に向かっていた家康の軍勢には、実は真田昌幸、信之、幸村と父子が勢ぞろいで参加していた。

そして運命の7月21日。下野国犬伏にて石田三成の密使が昌幸の下に到着した。

要するに西軍に味方してくれ、と言われたわけだ。

ここで困ったのが弱小大名の真田家だ。

どっちかに味方したとして、もしも負けちゃったらお家断絶である。

そこで、彼らは非情な決断をした。

要するに昌幸と幸村は西軍に味方する。

 




 
六文銭(ろくもんせん)
ろくもんせん
六文銭  
 
別名:六連銭(ろくれんせん)、六紋連銭(ろくもんれんせん)
六文銭(六連銭・六紋連銭)は家紋としての名称で、もともとは仏教の世界で言う六道銭のことです。
六道銭は三途の川の渡し賃、つまり通行料とされており、死者を葬る時に遺体と一緒に埋めるものです。
三途の川」の意味
三途の川は仏教において、死者が死後7日目に渡るとされている川です。
三途のもともとの意味は、悪行を重ねた者が行く地獄道・畜生道・餓鬼道の3つの世界のことでしたが、三途の意味が変形し、三途の川での3という数字は世界の数ではなく、通り道の数になっています。
三途の川を渡る方法は3つあり、生前の生き方によって、善人は橋、軽い罪人は浅瀬、重い罪人は流れの速い深みを渡ると言うことになっています。
六道」の意味
六道銭の六道とは、仏教において地獄(道)・餓鬼(道)・畜生(道)・修羅(道)・人間(道)・天(道)の6つの世界(道)のことをいいます。
六道を合わせて欲界と言い、その上に色界、さらに無色界があります。
欲界・色界・無色界の3つの世界を合わせて三界と言い、人間などの生物はこの3つの世界で生死を繰り返すというのが、仏教が示す世界観だそうです。
ぜ、三途の川の渡し賃が「六道銭」なのか?
なぜ、三途の川の渡し賃に「六道」の考え方が用いられたのか、その根拠は定かではありませんが、六道と六地蔵にそのヒントがあるようです。
仏教の世界の考え方として、あの世とこの世を行き来できる唯一の存在として地蔵菩薩がいます。
地蔵菩薩の中には、六道それぞれにリンクする六体の地蔵菩薩を並べて配置し、これを一まとめに「六地蔵」と呼ぶ例があります。六地蔵は一体毎に六道の1つ1つを守護する存在であり、善光寺(長野県長野市)の三門の手前右側にも六地蔵が安置されています。
六地蔵の存在が物語る様に、昔の人々の間には死後の最初の行き先であろう六道に対する意識が非常に強く、これが「死者に六道の数にあった銭を持たせれば清く成仏できる」という考え方に発展し、「六道銭」ができたようです。
   
 
「六文銭」を家紋に採用した意味と時期
真田氏は家紋に六文銭を用いることで、戦争や日頃の駆け引きについて、死をもいとわない不惜身命の決意で望んでいることを示していたと言われています。
真田氏の代名詞になっているほど、特徴的な家紋ですが、これは真田幸隆(幸綱)が旗印として採用したのが始まりだと言われています。

真田信繁(真田幸村)は大坂の陣で六文銭を使用しなかった
小説やテレビドラマなどの影響で、大坂の陣の時に真田信繁(真田幸村)が六文銭の旗を掲げて家康の本陣へ突入していったと思われがちですが、実際は武具を全て赤一色で統一する赤備えで決戦に望み、少なくとも目立つところには真田の家紋は一切使わなかったようです。
これは、徳川方についた真田宗家である兄真田信之(信幸)に対して気遣ったものであり、尚かつ赤備えで活躍した武田氏の流れを汲む者であることを意識してのことだと思われます。
ちなみに、信繁(幸村)が使った旗印は「総赤に金線」でした。
病を患っていた信之の代わりに大坂へ出陣した息子達の隊は、小松殿の兄弟である本多隊に付き添っていました。
豊臣方の毛利勝永隊と激戦を繰り広げましたが敗れて退却しましたが、これは信繁(幸村)と内通していると思われない様に、敢えてこうした行動を取ったのではないかと言われています。

田氏以外で家紋に六文銭を採用している例
六文銭は真田氏以外に、真田氏の親戚である矢沢氏が家紋にしてます。




 

■六文銭とは・・・

六文銭イメージ

■六文銭のいわれ その1
 真田家が六文銭を旗印として用いたのは武田家滅亡後の北条氏との一戦で勝利してからだとする伝承がある。
 居城である上田城に逃げ込もうとした真田勢を北条の大軍が追いかけてきた。そのときに、上杉家から帰された弁丸こと真田幸村が一計をたてた。白無地の旗に永楽通宝を書き込ませ、それを布下や穴山らの部将に持たせ北条軍に夜討ちさせた。北条軍の重臣のひとりである松田尾張守の紋所が永楽通宝であったため北条軍では謀反が起こったかと驚き、その混乱した隙に上田城に戻ることができた。真田昌幸はこれにより幸村に六文銭を家紋にせよと言ったらしい。
 しかし、上田城は武田家滅亡直後ではまだ出来ていないことを考えるとあやしい伝承である。

■六文銭のいわれ その2
 次は九度山真田庵にある言い伝え。六文銭旗の由来としています。
 「天正十年三国峠で上杉の大軍を戦わずして説伏せた真田父子は三百余人の軍勢を引いて三国峠を過ぎた箕(笠?)城(箕輪城か)で北条氏政の大軍四万五千と対決。その時幸村は十四才。父昌幸に『家名をあげるのはこの時です。どうして恐れることがありましょうか』と言って無紋の旗を取出し北条方の重臣松田尾張守の旗の紋、永楽通宝の紋を描き、旗六本を造り味方を六隊に分け敵陣に夜討ちをかけた。北条方は松田が謀反を起こした言って大騒動でした。昌幸幸村にその功を誉め『お前は今から定紋を六文銭にすることを許す』と言いました。これが真田の六文銭旗の由来です。」とあります。

真田庵の六文銭 ←紀州九度山真田庵の六文銭

■六文銭のいわれ その3
 六連銭は仏教でいうところの六道銭のことで、三途の川の渡し賃である。決死の覚悟であるという意気込みが伝わるところからこの家紋にした。

 六文銭は真田家の家紋として有名である。六連銭紋。真田家は六文銭を用いる前は雁金(かりがね)の紋であった。ちなみに、この家紋は真田家だけの家紋ではなく、海野氏や深井氏もこの家紋である。

 


皆さんに、400年ほど前の戦国時代のお話しに付き合ってもらったので、現代にMindを戻し、ちょっと朝からロマンチックでSexyなマライアの曲をアップしますので、今日を楽しい日にしてくださいね。。
 

      

 

 

 

 

それでは、Have a magnificent day, Everyone!!

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May 22. 2014



 

 

 

 



 


 

 

 

 

 




それでは、Wishing You All Have A Joyful And Gorgeous Day, Everyone!!
 

 

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Apr 5. 2016