芸術の秋は「モネ 睡蓮のとき」鑑賞、国立西洋美術館、上野 | ワインは素敵な恋の道しるべ

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白ワインは天使の如く貴方の心を解き放ち、赤ワインの真紅のグラスの底には悪魔が潜む。そして貴方は天使の如く大胆に、悪魔の如く繊細に、新たな恋の道を歩み始める。

今朝のベランダ菜園の収穫。

 

ピーマンとミニトマトのアイコ。

アイコは大きなものは4cmほどもある。

ピーマンも瑞々しくて大きく、28cm皿が小さく見える。

気温が35℃を超えると野菜も暑さ負けするので、これ以上気温が上がらないことを祈りたい。

 

10月のこと、ちぃさんと上野で待ち合わせ。

 

上野駅の公園口から上野公園へ。

 

平日の午後だというのに、上野公園には多くの人出。

暇人がこんなに多いのかと驚くが、そういう私たちも暇人に見えているのだろう。

 

目的の場所は「国立西洋美術館」。

 

私たちは早々に前売り券を購入していたので、チケット売り場に並ばずに入場。

 

会場に入ると、まずはヴィデオで企画展の概要を学ぶ。

 

いよいよ展示スペースに入る。

 

鑑賞した企画展は、「モネ 睡蓮のとき」。

見逃した方のために少し詳しくレポート。

企画展の内容紹介は、公式H.P.を引用。

 

「印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ(1840-1926)は、一瞬の光をとらえる鋭敏な眼によって、自然の移ろいを画布にとどめました。しかし後年になるにつれ、その芸術はより抽象的かつ内的なイメージへと変容してゆきます。
モネの晩年は、最愛の家族の死や自身の眼の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面した時代でもありました。そのような中で彼の最たる創造の源となったのが、ジヴェルニーの自邸の庭に造られた睡蓮の池に、周囲の木々や空、光が一体となって映し出されるその水面でした。そして、この主題を描いた巨大なカンヴァスによって部屋の壁面を覆いつくす “大装飾画”の構想が、最期のときにいたるまでモネの心を占めることになります。本展の中心となるのは、この試行錯誤の過程で生み出された、大画面の〈睡蓮〉の数々です。
このたび、パリのマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開となる重要作を多数含むおよそ50点が来日。さらに日本各地に所蔵される作品も加え、モネ晩年の芸術の極致を紹介します。日本では過去最大規模の〈睡蓮〉が集う貴重な機会となります」

 

みどころは、以下の四点。

 

1. モネ最後の挑戦——“光の画家”集大成となる、晩年の制作に焦点をあてた究極のモネ展

 

2. 世界最大級のモネ・コレクションを誇るマルモッタン・モネ美術館より、日本初公開作品7点を含む、厳選されたおよそ50点が来日。

さらに、日本国内に所蔵される名画も加えた、国内外のモネの名作が一堂に集結する充実のラインアップ

 

3. モネ晩年の最重要テーマ、「睡蓮」の作品20点以上が展示

 

4. 2メートルを超える大画面の〈睡蓮〉に囲まれて、モネの世界にひたる、本物の没入体験

 

色々な画家の名前を冠した企画展が開催されているが、その多くが同時代の画家や同じ流派の画家の絵も合わせて展示されている。

今回の「モネ展」は展示されている66点の全てがモネの、しかもジヴェルニーの庭を中心とした晩年の作品。

モネが多作であったことがこの展示を可能としている(フェルメールでは不可能)が、ジヴェルニーの庭に没入することができる素晴らしい企画展だ。

 

展示は4章に分かれ、モネがジヴェルニーに移り住んでからの絵の変遷を時系列で理解することが出来る。

 

第1章 セーヌ河から睡蓮の池へ

1890年、50歳のモネはジヴェルニーの家と敷地を買い取り、ここを終の棲家とする。

この時期に描かれていたのは、ロンドンやセーヌ河の景色。

1893年に睡蓮の池を造成し、その二年後に水の庭の絵を初めて描いている。

1903年から1909年にかけて約80点の睡蓮の連作が描かれ、モネの絵は景色から水面とそこに写りこむ映像が絵の主題へと変化した。

 

「ポール=ヴィレのセーヌ河、ばら色の効果」(1894年) マルモッタン・モネ美術館、パリ

(写真は公式H.P.からお借りしました。以下同様。)

 

「ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出」(1897年)  マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「睡蓮、夕暮れの効果」(1897年) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「睡蓮」(1907年) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

第2章 水と花々の装飾

19世紀末には装飾芸術が流行し、モネも睡蓮をモチーフとする装飾画に注力する。

その後の視覚障害(後に白内障と判明)と愛妻の死という不幸に見舞われ制作から遠のくが、1914年に再び制作意欲を取り戻し、睡蓮のみならず庭に咲く藤やアガパンサスを描き始める。

しかし最終的には花々による装飾を放棄し、池の水面とその反映を描くことを選んだとのこと。

睡蓮以外の植物の絵を観る機会は少ないので、興味深く鑑賞。

 

「キスゲ」(1914ー1917年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「藤」(1919ー1920年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「藤」(1919ー1920年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「アガパンサス」(1914ー1917年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「睡蓮」(1914ー1917年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

第3章 大装飾画への道

「大装飾画(Grande Décoration)」とは、睡蓮の池を描いた巨大なパネルによって楕円形の部屋の壁面を覆うという、モネが長年にわたり追い求めた装飾画の計画。

大画面の睡蓮の絵が展示された第3章の部屋は、まさに楕円形。

でも、その部屋の全体像は撮影忘れ。

ここのみ撮影可なので私が撮影した写真をアップ。

 

「睡蓮、柳の反映」(1916年?) 国立西洋美術館(旧松方コレクション)

驚いたのは、ボロボロになったこの絵。

紹介文を貼り付けておく。

 

 

「睡蓮」(1916ー1919年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「睡蓮」(1914ー1917年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「睡蓮」(1914ー1917年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「睡蓮」(1916ー1919年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「睡蓮」(1916年) 国立西洋美術館(松方コレクション)

 

「睡蓮の池」(1917ー1919年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「睡蓮、柳の反映」(1916ー1919年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「睡蓮、柳の反映」(1916ー1919年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

この絵は少し怖い。

 

第4章 交響する色彩

1908年頃から白内障が顕在化し、次第に失われている視力の中でも制作意欲は衰えず、絵を描き続けた。

晩年(1926年12月5日没)の絵にはその影響が色濃く、激しい色彩と筆遣いの絵は、1950年代にアメリカで台頭する抽象表現主義の先駆と位置付けられている。

 

「睡蓮の池」(1918ー1919年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「日本の橋」(1918年) マルモッタン・モネ美術館、パリ

睡蓮の池に架かる日本の太鼓橋は晩年のモネの重要なテーマ。

 

「枝垂れ柳」(1918-1919年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「日本の橋」(1918-1924年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「ばらの庭から見た家」(1922-1924年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

左上部に見えるのが、モネの家。

 

エピローグ さかさまの世界

モネが大装飾画で意図していたのは、無限の水の広がりの中に鑑賞者が包まれ、瞑想できる空間。

それはルネッサンス以降西洋絵画の原則である遠近法(透視図法)への挑戦でもあった。

水面に凝縮された世界は、まさにさかさまの世界と言える。

 

「枝垂れ柳と睡蓮の池」(1916-1919年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ

 

「睡蓮」(1916ー1919年頃) マルモッタン・モネ美術館、パリ


鑑賞を終えて会場を出ると、記念グッズの販売コーナーには入店待ちの長い列。

 

話しは変わるが、地下で面白いものを見付けた。

小さな窓があり、中を覗くと免震構造を見ることが出来る。

 

”日本初の免震レトロフィット”とのことで、ル・コルビュジェ設計の建築物を、49の免震部材で支えているのだそうだ。

 

外に出ると既に夕闇が迫り、中庭の彫像はライトアップされている。

オーギュスト・ロダン、「カレーの市民」。

 

右は、オーギュスト・ロダンの「地獄の門」。

その左右に「アダム」と「エヴァ」。

左奥は、エミール=アントワーヌ・ブールデルの「弓を引くヘラクレス」。

さて、そろそろディナーのお店に向かうことにしよう。

ちぃさんと過ごす、上野の楽しい夜は続きます。