バンコク発、成田行きのNH(ANA)954便。
3月11日の16時過ぎに成田に着陸する予定だった。
ところが、高度を下げ始めたところで突然、関空へ行き先変更の機内アナウンス。
一体何が起こったのか全く要領を得ない。
その時、辛い想い出が頭をよぎった。
阪神淡路大震災の時、私は始発の「のぞみ」で新大阪に向かっていた。
ところが、名古屋でしばらく停まりますとの車内アナウンス。
理由もわからずしばらく車内に居たが、様子がおかしいので列車を降り、待合室のTVを見に行った。
目の前に広がる地獄絵。
友人を失った。
さらに想いは続く。
イスタンブールのハイアット・ホテルのプールサイド。
長椅子に寝そべり、すりガラスの板を目にかざして皆既日食を初めて観た。
そのすりガラスの板は、トルコ人の友人からもらったもの。
その日の夕方の便でイスタンブールを経ち、帰国した。
そしてトルコ西部が壊滅的地震に襲われたことを知った。
何人かには携帯電話が通じ、無事を確かめることができた。
そして、すりガラスをくれた友人が、倒壊したビルの下敷きとなり亡くなったことを知った。
すぐに日本の友人達と募金活動を行い、100万円を集めてイスタンブールに飛んだ。
そして、今年。
ニュージーランドに住む知人達の無事を確かめ、募金に応じ、そしてインドに飛び立った。
ところが、帰国した途端の悲報。
機内で、ヒアーアフターの映画を観たことを思い出す。
東京にも被害が出たようだ。
家族、知人の無事を確かめたいが、携帯電話が通じない。
次々と携帯メールを送る。
そして無事を知らせる返事が次々と届き、一安心。
次なる問題は、自分自身。
新幹線も止まっていて、東京に戻る術がない。
関空や新大阪近辺のホテルは全て満室。
大きなスーツケースを二個持ち、しかもコートも無く、着ているのは夏服。
ようやく心斎橋に残り一室のホテルを見付け、チェックイン。
朝早く、大混雑する新大阪駅に行き、東京駅へ。
ところが電車は止まり、タクシーも無し。
友人が車で助けに来てくれたが、その頃には身体の芯まで冷え切っていた。
普段は20分で着く距離を、渋滞のため二時間かかってようやく帰宅。
幸いにも私が住む建物は無傷で、室内にもほとんど乱れた様子が無い。
最新の耐震設計技術は大したものだと喜んだのも束の間、水が出ない。
一夜明けて、周りを見て驚いた。
舗道はいたるところめくれ上がり、液状化現象による泥が噴き出ている。
ミネラル・ウォーターを買いに家を出たが、周辺の変わりように声も出ない。
幅の広い、煉瓦敷きの美しい舗道だったが、噴出した泥の下に沈下し、一部しか残っていない。
こんなに泥が深いと、除去するのも大変だ。
ミネラル・ウォーターを買いに行った近所のコンビニは、泥に埋まって休業。
その先の大型スーパーマーケットは、舗道の地盤沈下で土台が浮き上がり、休業。
気を付けて歩かないと、直径1m以上の、泥が噴出した穴が舗道に開いている。
最悪なのは、この泥は粒子がとても細かく、乾くと真っ白なほこりとなって空中を舞う。
マスクをしていても、口がざらざらになり、目も痛い。
かなり粘り強く、自転車で渡ろうとした人が、車輪を取られて倒れてしまった。
東北地方の被災者に、今の自分は何をできるのか考えなければならない。
時間が経つにつれ、被害の大きさが明らかとなり、胸が痛み、何かしなければと気が焦る。
物を贈るにしても、物流が混乱している。
まずは、募金からのスタートだろう。
海外の友人たちからも多くの安否確認のメールをいただいており、早く返信して安心させたい。
一方で、風呂もトイレも使えず、炊事もできない初めての生活をどう乗り切るか、大変な週明けを迎えることとなった。