みなさんこんにちは。
Takaです。
プロビデンスもとうとう秋になりました。
北海道では初雪が降ったとか・・・
本州の方々、台風は大丈夫でしたか?
多くの大学が休講になるなか、東大は授業をやったそうで。。
TLが大荒れでしたね笑
明日も試験です(>_<)
ついでにペーパーの提出日でもあります。
同じ科目です。教育経済学です。
鬼畜スケジュールです。
やばばばば。
この前のクラスで、期日前に提出できるボランティアを2人募って、
クラス内でみんなでレビューしたのですが、
多くの人の評価が、AないしBだったのに対し、
教授がさらりと、このアイディアならDだねーとか言ってました。
怖すぎです。
これぞ公開処刑です(・_・;)
とゆーわけで、いまショーンに頼んで文法・表現ミスのチェックしてもらってます。
さんきゅーですm(__)m
(彼の英語のすごさは、報告書の英訳頼んだ時で織り込み済みなので)
(追記: 試験は大丈夫そうです。ペーパーも無事に提出しました。)
***
さて、今回は、この前の記事にいただいたコメントをふまえて書いてみようかなーと思います。
コメントの中に、
勉強する意義を高校生が見つけるのは難しいのでは?
という意見がありました。
(実際、フェイスブックでもそんな意見をいただきました。)
僕が考える「勉強の意義」というのは、
もちろん「将来の目標」という長期的なものでもいいのですが、
もっと「短期的、ないし、中期的な目標」も含みます。
つまり、
「いまやっていること(=勉強)」と、短・中・長期問わず「先の目標」との間に
「つながりを見出すことができる」ということが大事だと思うんです。
次のテストで満点とるんだ!でもいいし、
今学期は全部Aとるぞ!でもいいし、
そのうえで、よし今日の勉強頑張ろう!
的な感じで。
これなら、高校生もできるのではないかと思います。
***
あとは、入試だけ変えても、中身が変わらないと意味がない
というコメントもいただきました。
ほんとにその通りです。
これって「ゆとり教育」の失敗の逆パターンなんですよね。笑
ゆとり教育の失敗の1つの理由として中身変えたのに、入試が変わらなかった、ということが挙げられると思います。
でも、
中身を変える一つのイニシアティブとして、入試改革に取り組もうとしているのは評価できると思います。
入試は、高校までの学習のひとつの集大成と言えるので、
入試改革として、新たな教育のゴールを示すことによって、
そのゴールを達成できる高校カリキュラムへの移行が促されると思います。
***
さて、人物評価について、Japan At Wesleyanのほうでも議論がありました。
こちらをどうぞ。
Kotaroさん:教育改革はアメリカの真似事?
http://japanatwesleyan.tumblr.com/post/63870481616/kotaro
彼によると(以下引用)
彼ら(高学歴の学生)は試験においての情報処理能力は高いかもしれないが、想像力、決断力、協調性のような資質は試験勉強のみでは養われないのだろう。その結果、ポジションと人材のミスマッチが起きる。(括弧内は僕の補足です。)
勉強以外で評価されるべき資質を備えた人たちに高学歴という社会的影響力のあるポジションへの切符を与え、従来の”優秀”な人たちだけでは対処できていない現状に異なる視点を持ち込もうという試みだろうか。
とのこと。
非常に筋の通ったアイディアだと思います!
てか、狙いはばっちしその通りだと思います。
これに関しての僕のコメントは以下の通り。
予め言っておくと、僕は「条件が整えば」人物評価には賛成です。
その根拠はおおむね彼が述べてくれた通りです。
僕は、現状で 取り入れることに反対だということです。
なぜか?
それは、この「勉強以外で評価されるべき資質」そのものが「勉強」と同じものになっていまう恐れがあるから。
特に、Alexさんが言うとおり(ひさしぶりーい元気ですかー?)
自己アピールという土壌が整っていない日本で人物評価を突然取り入れるのはなかなか難しいことだと思います。
現状で人物評価を取り入れるとどうなるか?
この「勉強以外で評価されるべき資質」さえも画一化されてしまう可能性がある、ということです。
「入試対策」ってことで、従来通りの取り扱いでしょう。
つまり、従来の「勉強」が得意だった人たちが、受験勉強の一環として、課外活動などを始めてしまいうる。
そーなると、せっかくの課外活動にこめられたスキルを会得できない可能性がある。
ってわけです。
もう一つ、コメントしておくと、
そういった従来のシステムでははじかれてきた人たちを取り入れることが、グローバル人材育成と、どうつながるのか?
ということです。
つまり、この論理の背景には、
受験システムでははじかれてきた学生=グローバル人材のポテンシャル
という前提があると思います。
しかし、はたしてそうなのか??
ここが、大きな疑問点ですね。
ですから、考えられる方法としては、
人物評価取り入れの期日を決めて(例えば、2020年とか・・・そんな感じで)
それまでに、学校カリキュラムを改正して、
自己探求(的な?)を促すような時間をしっかり確保し、
上っ面じゃない自己アピールをしっかりとできる学生のプールを作ったうえで
人物評価を取り入れれば、
それこそ「優秀」の定義に多様化につながると思います。
ただ、いずれにせよ、大学教育を変えない限り、
せっかくのポテンシャルも伸びませんね・・・
大学教育に関しては、政府もいろいろと考えているようです。
ただどーも世界大学ランキングだとか、留学生を増やすだとか、
そういった表面的なことにとらわれている気がしてなりません。
やはり、国家としてどういう人材をほしいのかってのをもっと明確に定義したうえで、
その人材育成の1つのプロセスとしての大学教育がどうあるべきなのかを考えるべきだと思います。
***
ちなみに、グローバル人材の定義についても、新たな定義(案)をいただきました。
どんな定義であれ、大切なことは、
その定義から、「必要とされる能力を明確に導き出せるか?」ということです。
政策を考える以上、僕は、あれやってみたらいい結果が出た、これやってみたらいい効果があった・・・みたいに、ランダムに政策を実行すればいいってもんじゃないと思います。
やはり、
最終的なゴールに向かって、ロードマップを作って、効率的に資源を割りふっていかなければならないと思います。
(少なくとも、その努力をすべき。)
いずれにせよ、ゴールは明確に。それに尽きます。
***
国、そして、地方自治体は、国公立の教育機関・学校に対して、お金を払います。
お金を上げる以上は、どーあがいても「ひも付き」なのです。
こういう人材が国・自治体としてほしい。
お金を配って、そういう人材を作らせよう!
これが(マクロ的に見た時の)主権国家おけるひとつの教育の側面です。
(もちろん、ミクロ的に見れば、教育の価値を決めるのは学生ですが。)
だからこそ、「グローバル人材」育成に関する一連の議論があるわけですね。
もし、ここから根本的に変えたい、
つまり、学校ごとにそれぞれ特色ある校風を作っちゃえ!
としたい場合は、
それこそアメリカのような、州と学区みたいな「地方」が強い権力を持つ制度になるでしょうが、
そこまで抜本的な改革はむずかしいかなーと。
あまり政治学そのものには詳しくないので、ここについてはコメントを控えますm(__)m
***
とまーこの前、今回といろいろ書いてきましたが、
大事なことは、考えることをやめないことだと思います。
コメントをくださった方、ありがとうございます。
これからも、じゃんじゃんコメントよろしくお願いします。
最後は、いつかのWater Fire の写真で。
きれいですよねー!
でわまた来週。ばーい(^O^)/
今週の日曜日にお茶なしお茶会
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