(ブロンプトンで箱根秘湯巡りの続き)

 

 

ブロンプトンへ秘湯へ行こうセカンドシーズン。雨の中、ブロンプトンで箱根の秘湯めぐりだ。早雲山から強羅を経由して、箱根裏街道を底倉温泉へと向かう。

 

[走行データ]

ルート: ロープウェー早雲山駅→強羅駅→底倉温泉函嶺→平賀敬美術館→箱根湯本駅

距離: 11キロ

最大標高差: 669メートル

平均斜度: 全体-6.1% 上り6.8% 下り7.3%

獲得標高: 上り44m 下り708m

 

小糠雨に煙る早川渓谷にヤマザクラ。

 

霞みの向こうに底倉温泉函嶺のレトロな洋館が見えてきた。

 

函嶺は蛇骨川が早川に合流する断崖の間際に建つ。

 

大正時代に建てられた瀟洒な洋館である。元は『函嶺医院』といって箱根で初めて開業した医院だ。招聘したのは、箱根の有力者だった底倉の老舗「つたや」と宮ノ下の「富士屋ホテル」の経営者とのこと。細かく見ていくと和洋折衷の非常に手の込んだ建物である。富士屋ホテルと同じ大工の手によるものという。

 

お願いして、ブロンプトンは畳んで玄関のスミに置かせてもらう。

 

ここは商売っ気がない。既に旅館としての営業は止めている。日帰り湯だけだ。休憩込みの場合はこの広間を使わせてもらう。

 

元々、男湯女湯があったらしいのだが、人手の関係で維持が大変だったのだろう、片方を廃止して、一時間700円で「貸し切り風呂」として営業している。貸し切り風呂としては安すぎないか。ただし、管理の女性曰く「ごゆっくり。あそうそう、途中で男性のお客さんきたら入れてあげていいかしら」「どうぞどうぞ」。結局誰も来なかったが。

 

こりゃいい!湯もよい!この風呂を貸し切りとは贅沢だ。

 

これぞ極楽極楽。




 

一時間はあっという間に過ぎた。あの素晴らしい姥子湯と同じぐらい楽しめました。アリガトウゴザイマシタ。それにしても二湯こなすと結構疲れる。私の場合、自転車も漕いでますので・・・。雨もやんだので、クルマに気をつけつつ、とりあえず自転車で箱根の山を湯本まで降りて、例の『美術館秘湯 』へ行ってみるとするか。

 

函嶺医院

明治二十年代に入ると箱根への交通はしだいに便利になった。東海道線は国府津まで延長され、国府津・湯本の間には馬車鉄道が開通し、湯本から宮ノ下への車道も完成したからである。温泉場も七湯に加えて、小涌谷に温泉宿二軒が開店し、箱根を訪れる客は年ごとに増え、盛夏の季節には、全山の浴客は三千人を越えるようになった。しかし、未だ医療の施設はなく、転地の療養者も土地の者もおおいに不便を感じていた。
これを憂えた底倉蔦屋の館主沢田武治は、温泉村村長山口仙之助と図り、医師岡島行光を村医に招いた。その後、沢田武治、山中隆千、岡島行光の三名が発起人となり、当時蔦屋の所有地であった八千代橋の際に函嶺医院を創設、明治二十五年(一八九二)七月開業した。七月十七日挙行された開院式は、三橋神奈川県参事官、佐藤横浜市長、ベルツ博士、大谷嘉平衛、茂木保平、増田増蔵、木村順吉諸氏の他、京浜及び地方の紳士七十余名の来賓を迎えて、盛大に行われたと「横浜毎日新聞」は報じている。また同紙は「該医院は規模宏壮にして早川の渓流にのぞみ明神の霊峰に対し風色秀絶にして消夏養療には最も適当せり、また院内に薬泉を引き専ら入院者に便利を與ふると云ふ」と医薬と温泉療養の併用を強調して紹介している。
また毎週金曜日には、顧問医、木村順吉医師が東京より来院して患者の診察に当たった。函嶺医院は、初代岡島行光から三代にわたり箱根の医療に貢献した。

(箱根温泉史より)

 

(参考:上記説明にある「山口仙之助」とは富士屋ホテルの創業者である。)


 

  走り 秘湯度 総合
底倉温泉函嶺 ☆☆☆☆ ☆☆ 7


 

(美術館秘湯へ続く)