演出サイドの人や出演者は、全体の舞台で見ています。
私は、トレーナーとして招かれるので、まずは音声だけで見ます。
しかも将来と結びつけて判断しますから、そこで違いが出ます。
でも、求められるのは、現時点なので、そこでできることで実践します。
処方は、今を見るのか、今後を見るのかで違うのです。
演出サイドの人や出演者は、全体の舞台で見ています。
私は、トレーナーとして招かれるので、まずは音声だけで見ます。
しかも将来と結びつけて判断しますから、そこで違いが出ます。
でも、求められるのは、現時点なので、そこでできることで実践します。
処方は、今を見るのか、今後を見るのかで違うのです。
よりよくすることができるのにしていないケース、
それは別のことを優先させられている場合が多いので、仕方がないこともあります。
ただし、少なくとも、自分がいろんなものをみるときに、
もしこうだったらもっとよくなるはずだ、
こうではないはずだ、ということは、突き詰めておきましょう。
自分の作品を作るときの深化になります。
まわりの人が、どう言っても、もっとも深いところでつくりあげましょう。
自分の思う正解があるかといえば、そういうところは確かにあるでしょう。
ただし、どのレベルかです。
それが低いのなら、投げ出すことです。
レベルをあげるために優れたものに学ぶことです。
どうも、いまだに向こうに合わせるのが、正解になってしまっています。
客が望むものにプレーヤーが妥協するのでしょう。超えようとしません。
自分の感覚で判断する力で、最高を求めないなら、成立しません。
まず自分のものをちゃんとつくることです。
その必要性を感じないと、
いつまでも、こなすことだけでは、独自のものは、できていかないのです。
クラシックでオーケストラがつく場合、原調は、はずせません。お客さんも、歌手のキーに合っていなくても高すぎる、低すぎる、といえないのです。
ただし、それ以外では、変えられます。歌い手に合わせ、変えるのが、当然です。
向こうでは、そのテンポが普通でも、嫌なら変えればいいのです。
たとえば、ミュージカルの「エヴィータ」で比べてみます。
劇団四季のでは、映画版のマドンナ、バンデラスのよりも、半音高いです。
ミュージカル役者のベストの表現をリアルより、歌唱技術に頼ろうとするからです。
歌唱の表現力を優先するなら、一人しか歌わないときは、そのキーに合わせて変えればいいのです。演技での見せ、舞台中心に考えると、安易に向こうのものに合わせようとしてしまうものです。
ミュージカルや劇は、西洋から入って来たものです。
今では、舞台装置、演出は、同じくらいに立派になりましたが、実質、リアリティから離れています。日本では、むしろ、形式主義に陥ってしまったかのようです。
日本人は、実力において、特に声の力がないから、形を借りて、舞台らしく仕上げるのに長けたのでしょう。
華やかな照明やきめ細かい舞台装置、繊細な音響でカバーします。
その分、人間そのもののドラマトゥルギーが成り立たないケースが多いのです。
音や声の世界でお客さんを引き込み、ドラマを起こそうという感覚の欠如です。
客もそれを求めません。
欧米に声のノウハウがあるということではなく、彼らの方が音声コミュニケーションで厳しいということです。
身体を入れて、長く一気に、しゃべらなければ相手に伝わらないからです。
音声に対しての生活環境の厳しさが違います。他民族、多言語に気候風土などの影響もあるのでしょう。
日本のミュージカルでは、日常から離れたものをいきなりもってきたところで、それに対応できるキャパシティがないのです。
かつての演劇と同じく、日常生活での音声が弱いため、舞台の特殊感が拭えないのです。個人的能力では声のベースが広くないからです。いきなり踊ったり歌ったりというのには、相当の実力がないと、自然にこなせません。