自分にやさしく、自分をゆるす。
夫婦関係も特に悪くない
子育ても大きな問題はない
親との関係もまぁまぁ
仕事もやりがいがある
でも、、
時々すごく虚しくなって、
空虚感、虚無感に襲われる。
特に大きな悩みもないのに、
ふと人生が虚しくなる瞬間がある。
「こうして生きてて
どんな意味があるんだろう」
「人生に何の意味も見出せない」
「自分が空っぽに感じる」
そのようなお声を
伺うことがあります。
側から見たら
恵まれた日々を送っておられる方が
そうおっしゃることが
よくあるのです。
「私の人生はこのまま
こうやって過ぎていくのでしょうか。
毎日食事の支度と
電車通勤とで
忙しく生きるだけで…
そう感じて、
何もかもが虚しくつまらなく
感じるんです」
あなたはそんな思いになったこと
おありでしょうか。
だれにでも起こるものではないかと
思うのです
でも、なぜそのようなことが
起きるのでしょう?
そういう時、
私たちにどんな事が
起きているのでしょう?
「虚しさに襲われるとき」って
自分が「今、ここ」から
離れてしまっているものです。
そういう時はたいてい
頭と心が
未来か過去に
飛んでいっています。
↓
そして、
未来も過去も
「丸ごと全部ひとかたまり」にして
「自分の人生」として捉え、
「自分の人生」について
考えよう、評価しようと
しているものです。
↓
そうすると
「私の人生っていったい何なんだろう」
「こんな人生に何の意味があるの」
という方向に
思考が流れて行きやすい。
↓
こうなると、往々にして
「虚しさ」「やるせなさ」が
生まれてくるのだと思うのです
ではそんな時は
どうすればいいのでしょう?
・
・
そんな時は、
「過去から未来までひとかたまり」
にして
「私の人生って…」
としてしまっているところに
メスを入れていくのです。
「私の人生」という
大きなひとかたまりを、
細かく、細かく、
区切っていく。
「私の人生」という
長く大きな時間と空間を
「今、ここ」にまで
小分けして、
チャンクダウン(細分化)
していくのです。
大きなかたまりを
「今、ここ」という小さな断片に
刻んでいく。
そして
その小さな断片に、着地するのです
「今、ここ」で
「自分」がしていることに
全精神と全肉体を注ぎ込む。
「今、ここ」で「自分」が
タマネギを刻んでいるのなら
そのひと切りに
全精神と全肉体を捧げきる
「今、ここ」で「自分」が
床を拭いているのなら、
そのひと拭きに
全精神と全肉体を捧げきる
「今、ここ」で「自分」が
パソコンにデータ入力しているのなら、
そのひと打ちに
全精神と全肉体を捧げきる
今、目に映るもの、ひとつ。
今、耳に入ってくる音、ひとつ。
今、指先に触れているもの、ひとつ。
今、鼻腔に入ってくる空気、ひとつ。
今、自分の呼吸、ひとつ。
実際に目の前にある、ただひとつ
ただそれだけを感じきる。
ひと切り
ひと拭き
ひと打ち
ひと呼吸に
耳を澄ませ
心を澄ませ
全身全霊で集中する。
それを
ひとつ、ひとつ、またひとつ、、
と無心に積み重ねていくのです。
するといつの間に
心が静かに落ち着いてくるもの
なんです
穏やかな湖の水面のように
自分が静かに澄んできて、
不思議なことに
やがて静かな楽しさが
自分の内側に
満ち満ちてくるのです。
・
・
ずっと先のことまで考えたり、
一度に全部のことを考えたら、
自分の頭と心が
大きすぎる時間と空間に
混乱して疲れてしまうだけ。
すると「今、ここ」は
途端におろそかになり、
虚しくなってしまうのだと
思うのです。
「今、ここ」で
「自分」と共にいてくれる
包丁とまな板とタマネギがある。
雑巾と床がある。
パソコンの画面とキーボードがある。
今、この瞬間、この場所に
自分と共に存在してくれている
可愛い命たちがあるのです
それを
自分のこの「肉体・五感」で
ちゃんと見て、
ちゃんと触れて
感じきるのです。
その命たちと共に、
自分の「肉体・五感」と共に、
全身全霊で
今、ここを生きる。
ただそれだけを
積み重ねていく
・
・
・
ご自分を思い返していかがでしょう。
目の前の
タマネギ
雑巾
パソコンを
全身全霊で感じ、
全身全霊をそこに
注ぎ込んでいるでしょうか。
頭では別のことを考えながら、
目の前のことはおざなりに
こなしているだけ、
なんてことありませんか
・
・
「人生が虚しい」と考えている時は、
自分の思考を細かく切り分けて
「今、ここ、自分」
にしっかり着地する。
自分の「肉体と五感」を
感じきって、
目の前のものに集中する。
お互い
人生で2度と出会うことのできない
「今、ここ、自分」を
逃すことなく、
味わっていきたいですね
最後まで読んでくださって