今、自分で考えることをテーマにしています。
今日は、その関連でいただいたコメントから話を広げます。
さちりんさんより 2010-05-06 12:11:03
タイトル ■りんご
百聞は一見にしかずと言いますが、
確かにどんなにりんごを言葉で表現してあっても、あの味や見た目を知らなければ虚しいですね。
「体験」する機会をもっと息子に、と思いました。
徳田美和です。
さちりんさんからいただいたコメントをシェアさせていただきます。
さちりんさん、コメントありがとうございました。
なぜ、体験がないことが虚しいのかについて、考えたいと思います。
知識と体験。
・知識は、人々(自分以外の何者か)が模範的な解答と判断したものが中心
・体験は、自己実現にむけたトライ&エラーの繰り返し
知識を、自分の体験と混同している方がとても多いのですが、
知識と体験は、改めて主張するまでもなく、別物です。
体験、のあとに、自己実現にむけた、という部分を入れたのには、意味があります。
自分が、積極的に、やりたい。やってみよう。と感じたことを行う。それが、トライです。
誰かに勧められたことであっても、自分自身がトライすることを決定した瞬間、自己実現にむけたトライになります。
そうでない場合は、「やらされてる」状態ですから、失敗しても成功しても喜びには繋がらず、まぁ、どっちでもいいや。です。
このように、期待感(ワクワク感)のない体験は、あまり質の良い体験とはいえません。体験と全脳がキラキラとした輝きで結びついていないからです。
選択肢を持たないのは奴隷っぽいです。
余談ですが、奴隷を育成するためには、なるべく、本人の望まないことを、望まない形で望んでいるかのように見せかけて(交換条件などを出して)、やらせ続ければ良いですね。
怒鳴りながら、ほめながら。ちょいちょいとしているうちに、奴隷が作りだされます。
洗脳の手段でもあります。
サラリーマンの方には耳が痛い部分があるかもしれません。
このちょいちょいによって、歴史上、多くの人々が自由と魂を奪われてきました。
歴史は、よくもここまで。と思うほど、人を殺したりだましたり…。
そうはいっても、奴隷はネガティブな面ばかりではないので、それにも触れたいのですが、長くなってしまうので、別の機会にゆずります。
話を戻して。
知識と体験。
つづきます。
徳田美和