今日は体調も良く、時間もある。
やっと、『ラストアンビエント』について書けそうだ。5周遅れくらいの感じだけれど!
(体調、と書くと誤解を招くかもしれない。体力と気力がないと、こういう記事は私には書けない、ということです)
正直、これについて書くのは、私にとってとても難しいと感じている。
何故なら見る度に、ここにあるヒリヒリするような強烈な《孤独》に絡め取られて、客観的に観ることなど出来ないからだ。
この《孤独》感こそ、宮川君と羽生選手双方が強く持っているもので、二人の魂がそこにおいて強く共鳴しあっているーーそんな印象を受けて、見る度に胸をかきむしられるような気持ちになる。
それでも、何とか書いてみようと思う。
『ラストアンビエント』は、直訳すると『最後の環境』ということになるのだろうか。(もっと良い訳があると思うので、どなたか教えていただけると嬉しい)
最初と最後の映像で、その『アンビエント』という言葉の持つイメージが呼び起こされる気がする。
宇宙のような、夜の空のような映像。それは、羽生選手のコスチュームと印象が重なる。
宮川君(馴れ馴れしく呼ぶことをお許し下さい)
の歌は、声量を絞った繊細な(特に高音部)表現と、力強く、言い方は悪いが一種ドスの効いた中・低音部の表現の対比が素晴らしい、といつも思う。
最初の部分はビート感も最小に抑えて(ここは歌と、拍の頭のチェレスターー多分シンセだと思うがーーだけ)、その歌の繊細さに焦点を当てた音楽になっている。
羽生選手も一点に留まって、繊細な表現で応える。
いつものことながら、この時の羽生選手の身体表現が見事だと思う。
宮川君の歌の震えるような繊細さ、羽生選手の身体表現のしなやかな繊細さ。どちらがほんの少しでも欠けていれば、これほどの切なさは感じられないだろう。
音楽がビートを伴って動き出すところから、羽生選手も滑り出す。
が、周りが黒く塗りつぶされる。
閉塞感。
「呼吸の意味を知りたいだけ、、、、、、」で音を見送るようにバックしてからの
「ねえ」の次の頭の休符から、羽生選手のブレードの音が演奏に加わる。
この頭のブレードの音のタイミングが好きだ。
二人が共に、「行くぞ!」と声を掛けあっているかのようで。
そしてすぐジャンプ、ここも離氷も、着氷の音も音楽にぴったりあっている。
それ以降も、本当に共に《演奏している》感じが凄い。羽生選手のブレードの音が宮川君の音楽に寄り添い、より深めるものになっていると思う。
ビートにあったブレード音はもちろんのこと、
『何度も逃げ出したくなってた 混沌とした様が嫌いで』のところのブレード音とかも、私は好きだ。
そこから音楽が更に激しくなり、ビートも強くなる。この、ビート感の変化を滑りで感じさせてくれるスケーターは本当に少ない。私が羽生選手のスケートが好きな、大きな理由の一つでもある。
そしてあの側転!(これは側転で合っているのか?わからないのだけれど)スピードといい、姿勢といい、総てが音楽を《表現》しているのに驚かされる。回転速度があれ以上遅くても、速くてもダメだ。
そして「堕ちてく 脱走者のよう」のところから、音楽は静まり、再び羽生選手のブレードの音が入る。
後にも同じ様な所があるが、この静かな部分での羽生選手のブレード音が、本当に音楽に溶け込んでいるのが、ちょっと信じられないくらいのレベルだ。《演奏に参加する》と書いた所以である。
その後の「朝焼けの空」から映像はふたたび黒塗りになり、ブレードの音は無くなる。ここをこのような扱いにしたのも素晴らしいと思う。観ている側の気持ちが、内面に収束してゆき、孤独が心に迫る。
「記憶の海に、、溺れたい」からの次は、再び前と同じ激しい部分になる。再びブレード音。
ここから羽生選手は、前よりも映像の部分に重点を置き、歌詞のイメージをクローズアップしていっているように思う。(この映像に凝らされた工夫は、私は詳しくないのでどなたか詳しい方に是非解説していただきたいと思う。)
これによって、同じフレーズの繰り返しは、回を追うごとに我々に強いメッセージを送るように感じられる。
そして、羽生選手は視覚的アートの素養ーー才能も持ち合わせているのだと感じる。歌詞のフォント、配置、色合い、タイミング、動き、全てに工夫が凝らされている。
歌詞が生き生きと立ち上がってくる感じだ。
文字がーー自ら歌っているかのような。
これだけの文字の強さと演技を同居させるのは、とても難しいことだと思う。これが可能であったのは、羽生選手が両方をやったからだ。
別の誰かが文字を担当したら、羽生選手に遠慮せずにはやれない。世界一の演技に文字を被せるのだから!そうなれば、これほどのイメージを文字に持たせるのは不可能だったろう。
どうやれば、文字に強さを持たせ、尚且つ演技とも溶け合わせることができるか。
羽生選手以外の人間がその答えを持つことは、ちょっと考えられない。
そういう意味からも、この映像は、本当に唯一無二のものだと思う。
実は、私は初めてこれを観たときから、MVをスケートでつくることの意味についてずっと考えていた。
しかし今回改めて、その私の考えの根本が間違っていたのだと気づいた。
この映像は、ある種MVのような手法を採っているけれども、根本は宮川大聖と羽生結弦という二人のアーティストの、魂の共鳴による作品なのだ。
そして、そういうものにしたのは、羽生選手自身に他ならない。
羽生選手はこれまでも、そこにある音楽から導き出される演技をして来た。
そこにある音楽を生きる、と言っていい演技だ。
しかしこれは、それらとは少し趣が異なる。
歌詞を入れたのは、羽生選手自身がその歌詞に強く惹かれたこと、その歌詞のイメージを強く持って滑っているからだと思う。そのイメージを、映像ならではの方法で観ている人により明確に伝えたかったのではないだろうか。
羽生選手自身が、この曲を書き歌う宮川大聖というひとに強く共感し、ここにある孤独に共鳴し、他の誰でもない、生身の羽生結弦自身として作り上げた作品、と言えばよいだろうか。映像も含めて。
私がこれを観る度に絡め取られる孤独の深さは、そのためではないだろうか。。。
曲の終わり、歌詞なしで歌われるリフレーン部分、
羽生選手は全身で激しく舞い、スピンで締めくくる。最後の音と共に崩れ落ちる羽生選手のコスチュームに映像が寄って、それが最初の、夜の空の映像へ溶け込んで終わる。
『ラストアンビエント』そこからの脱出とか、新たな展開とかは、ここには描かれない。
そして私は、これを観る度、自分の抱える孤独にも、否応なく向き合うことになる。
けれども、それは、孤独から目を背けて誤魔化して生きるよりも、私にとっては良いことなのだろうと、ぼんやりと考える頭の中で、まだ曲が流れ続けている。