電車の窓を流れてゆく、夏の夕暮れの景色。
陽が傾き、山々はほんの少し煙ったような光りの中で、優しく蒼く佇んでいる。
車窓の脇を古い農家が過ぎ去る。
その納屋だろうか、年月を感じさせるその壁に夕陽があたって染みを際だたせているのを見た瞬間、私の中にこみ上げるものがあった。
夏の夕暮れには、沢山の思い出がある。
その多くが、もう決して戻らない時であることを
その瞬間に思わせられたのだろうか。
私はキースのピアノを聴いていた。
Over the Rainbow。
この曲も、私には深い思い出の曲だ。
受験前の極度のスランプの中で、来る日も来る日も、私はこの曲をピアノで弾き続けた。
その時の私にとってその時間だけが、音楽を好きで居られる瞬間だったのかもしれない。
あれから何十年という時が流れ過ぎた。。。
染みの浮き出た壁。
決して戻らない時。
夏の夕暮れの光が心に呼び起こすもの。
言葉にならない、些細な心の動き。
決して言葉にしてはいけなかった、心の奥底にしまった感情の思い出の欠片。
キースは、きっとこんな感覚、思い、感情を
知っているに違いない、と思った。
何故なら、彼のピアノには、それらすべてがあるのだから。
今更ながら不思議だと思うのは、例えば
ポリーニ、アルゲリッチ、ホロヴィッツ
ルドルフ・ゼルキン、ギーゼキング、バックハウス
皆私の好きなピアニストなのだけれど(節操がないなと改めて思うけれど(笑))
それぞれに、私の心に呼び起こすものが異なることだ。例え同じ曲を弾いたとしても。
当たり前と言えば当たり前なのだが、改めて考えると不思議だなと思ってしまう。
そしてキース・ジャレットの場合は、恐らくジャズという分野の違いもあるだろうが、上記のピアニスト達とまた、全く異なる感情を呼び起こさせられる。
それでいて共通するのは、聴いている私の心が、縛られていたものから解き放たれる感覚だ。
心の血管に血が通い出す感覚と言えば良いだろうか?
アルゲリッチ達の演奏は、心の大動脈に力を与え、キースのそれは心の隅々の毛細血管に染み渡ってゆくかのようだ。
(勿論、どちらにも大動脈にも毛細血管にも血が流れる感覚は有るのだけれど、どちらが主かというと、私はそういう感じを受ける。)
曲がダニー・ボーイに変わった。
東京バージョンの演奏だ。
私はこの演奏を聞く度に、心の奥底から揺さぶられる。全ての音がこちらに幻のようなイマジネーションを伝えてくる。
思いは自ずと、羽生選手のダニー・ボーイに向かう。
羽生選手のダニー・ボーイは、デイビッドによって
大動脈へのアプローチーー全体の骨格が非常に素晴らしく創られていると思う。
毛細血管に届けるのは、羽生選手自身の細かいニュアンスに依ることになる。
ここが今でも充分に素晴らしいのだけれども、
今後年月を経ていった時、どのようになってゆくのか。
今年の宮城のアイスショーで、その部分でも非常に素晴らしいーー私にはあれ以上のものは想像出来ないーーnottestellataを魅せてくれた彼だ。
このダニー・ボーイが年月を経て熟成されてゆくところを、この眼で見届けたいと切実に思う。
そして、当然のことだが、彼らのようなーー上記のピアニスト達のようなーーこんな魔法は、誰にでも可能なわけではない。
音楽の女神に選ばれた者だけに、可能なことだ。
そして選ばれし者には、使命が課せられる。
女神の福音を世の中に広く伝え続けるという使命が。
それが幸福なことかどうかは、わからないけれども。