さて、今回のノッテの『カルミナ』について、まず驚かされたのはそのストーリーだ。
素朴で純真な少年が、やがて運命に翻弄され、しかしその運命から逃げずに対峙する。
その時、運命は美しい女神となる。
まさに、羽生選手自身の人生そのものだ。
カルミナ・ブラーナにこのストーリーをもってきたのが凄すぎる。
初日を観た方々からのツイ上のレポートをみて、鳥肌が立った。
もしかしたら、、、
ニースのシーズンのロメジュリでこの曲と出会った後、羽生選手の中にこのストーリーが徐々に形成されていったのではないかな、と思った。少なくとも今回カルミナをやろう、となってから考えたものではないような気がする。
彼が競技時代にこの曲をやりたいと言ったとき、
もしかしたら頭の中にこのストーリーがあったのかもしれない、、、、、。
しかし、年月を経て、今回コラボレーションとして演技することで、競技プログラムとは全く異なる、強烈なインパクトを観るものに与えることとなった。
まず大地真央さんの存在感の凄さ。
流石だと思った。
運命の女神の強大な力、酷薄さ、そしてその後の輝くような美しさが実感できなければ、このドラマは成立しなかった。
羽生選手の、最初の部分の無垢な少年時代の演技。
バレエの要素をふんだんに取り入れて、今までの演技とは全く違ったイメージであるにも関わらず、それが何の違和感もなく、羽生結弦のスケートとして受け入れられることの凄さ。
これは今まであまりやったことのない身体の使い方をして、それが自分のものになっているということに他ならないと思う。
この部分は、本当に美しい。
また、この部分にこの曲をもってきたこと。
こうやって提示されれば、ああ、ぴったりだね、と思うけれど、普通ならこの曲に、無垢な少年時代をあてると考えつくだろうか?
カルミナを知っている人間ほど固定観念に縛られて、思いつけないのではないかと思う。
彼はいつも、固定観念に邪魔されることなく、音楽の本質を見ることができると、つくづく感じさせられる。
(勿論、この音楽を選定したのが彼自身だとして、の話ではあるのだけれど、私はそうに違いないと思っている。)
それから、運命に操られ、翻弄される部分。
ここは大地真央さんと羽生選手の息がぴったり合って、凄い緊張感だった。
運命に縛られ、操られ、それから逃れようと抗う羽生選手は、素晴らしいリアリティを感じさせる演技だ。
皆、息をのんで見守っていたと思う。
そして、羽生選手が運命の女神の方へ振り向いて
ーー次の瞬間。一気に運命の女神に駆け寄ってゆく。
それはあっという間で、そして決意に満ち満ちていて、その羽生選手から放たれるエネルギーのもの凄さに、実際会場にいた私は、雷に撃たれたような気がした。
それは、彼自身の、『例えどんな運命が降りかかろうと、自分はそれから逃げることなく対峙してゆく』という宣言のように思えた。
そこには震災だけでなく、これまでに彼自身に降りかかった様々な理不尽なことも含まれているようにも感じた。
その一瞬の凄さ。
そのエネルギーによって、禍々しい運命の女神が、美しい女神となる、その説得力。
あの一瞬が、この演目の鍵なのだ。
あの瞬間こそが、羽生結弦が羽生結弦たる所以だ。
ニースの演技に感じたのと同じものを、私はあの一瞬に感じた。
凝縮された分、もしかしたらもっと強烈に。
今回のBSの日本テレビの映像は素晴らしいと思うけれど、この一瞬を捉えなかったことは返す返すも残念でならない。
繰り返すが、これは羽生選手の高らかな宣言だ。
降りかかった運命に打ちのめされても、決して逃げない。それと対峙し、更なる高みを目指す。
そしてそれはとりもなおさず、今この瞬間、運命に打ちのめされている人々へのエールとなる。
彼はそういう人々へ、呼びかけているように思うのだ。
共に、前へ、と。
RE PRAY宮城公演まであと5日。
nottestellataとダニー・ボーイについては、その後に書くことになるかもしれない。
でも、カルミナのこの瞬間のことだけは、
どうしても今書いておきたかった。
私はこの瞬間のことを、決して忘れないだろうと思う。