あれからRE PRAYの追加公演やら、GUCCIやら、どんどん情報が来て、もうとっくに過去のことになっているであろう前回の記事の内容について、今更とは思わなくはないけれども、私が前に進むためにはどうしても必要なので、この記事を書いている。
本当に多くの方からコメントを頂いて、有り難くて、お返事を書こうとする中で、やっと自分の気持ちを整理することが出来たように思う。
この記事では、それらのコメントに導いていただいて到達した、今の私の考えをまとめてみた。
時間が経って、少しずつ気持ちの整理が出来てきて思うのは、コメントを下さったみなさんが仰っているように、羽生選手は決して、自分の想いを他の誰にも押し付けようとはしないだろう、ということです。それは常々、彼自身が言葉にしていることですね。
そのことはわかっているのに、何故Twitterの言葉に、あんなに引きずられてしまったのか。
それは、羽生選手自身の想いと、自分の想いが、あの時とてつもなく距離があったのだと、気づいてしまったからではなかったか。
その距離があまりに離れすぎていて、私には羽生選手の姿が見えなくなったような気がしてしまったのかな、と思います。
羽生選手の気持ちに、可能な限り寄り添っていたい。それがファンとしての私の気持ちです。
でも、一方で、音楽でも演劇でもそうだと思いますが、芸術は、その人個人の心が受け取るものです。それは有る意味、極めて個人的な体験なのだと思います。
そこに矛盾が生じるのは、当然の成り行きだったのかもしれません。
私は羽生選手を全力で応援したいと思っていますが、同時に、彼が私に見せてくれるあの芸術と呼ぶに足る世界を、羽生選手のファンという足枷無しに堪能したいとも思っているのだと、今回のことで気付かされたように感じています。
そして、これは断言して良いと思うのですが、全ての芸術に携わる人間は、自分の作品を、『頭』でなく『心』で感じて欲しいと願っていると思います。勿論、作品の背景や、主張について、それぞれが掘り下げて考察してもらうことは、素晴らしいし嬉しいことです。
でも、最終的には『心』で感じて欲しい。
そこには、『こうあるべき』という足枷は、必要無いと思います。
今回の『笑い』は、そういうこととは少し違うと言われる方も有るでしょう。それは尤もな部分もあると思います。
しかし、あれらの演技を、あくまで3.11を念頭において味わうべき、という主張がその中に僅かでも入ってくるのであれば、私はそれは違うと言いたい。
notte stellataは、3.11に思いを馳せる公演です。
しかし、そのことと、演技を自分の心で受け取ることとは、また別のことで良いのだと今ははっきり思います。そう思えるまでに時間がかかりましたが。
羽生選手自身の演技が3.11への思いからのものであったとしても、受け取る側には受け取る側の思いがあって良いのだと思います。
だからこその、言葉ではない、演技なのですから。
『余白』というのは、そういうことではないのでしょうか。そして、その『余白』こそが、芸術なのだと思います。
ツイで非難した方々は『笑い』が、その羽生選手の思いを踏みにじるものと感じて、憤られたのだろうと思います。そのことは、理解出来るのです。
しかしそれはあくまでその方の『感じた』ことであって、それをもって他の誰かが演技から感じたことを縛るような事があってはならないのではないかと、私は思います。
わざわざ今頃、こんなことを書いているのは、これからもこういう事が繰り返されるかもしれないという危惧が、私の中にあるからです。
羽生選手のパフォーマンスは、一人一人の心に訴えてくる芸術の域に達していると思っています。
その彼のファンである、ということはどういうことなのか。当然、競技時代とは変わってくるべき部分もあるのではないか。考える時期に来ているように思います。
一人一人が、『こうあるべき』を外して、自分自身の心で彼の演技を受けとめること。
それが、最も大切な事なのではないかと、
今、私は思っています。