何という人だろう!、羽生結弦という人は。
今でも心の震えがとまらない。
こんなことは、不可能なはずなのだ。
以前、私は『単独のショーとは別に、他のショーにも出続けて欲しい。』と書いた。
何故なら、一つだけの演目を滑る時の完成度は、単独ショーでは望めないと考えていたからだ。
全く次元の違う話で恐縮なのだが、
私がソロの演奏会をするときーー
他の方はわからないけれどーー
一曲ずつの練習の他に、やる練習がある。
通しの練習だ。
つまり、演奏する曲全てを通して演奏する練習だ。
これをやっておかないと、その前からの疲労の中で
どういう状態でその曲を演奏しなければならないか、わからないからだ。
特に管楽器の場合、身体の疲労度によって、普通なら続くはずのフレーズの途中で息が続かなくなったり、また息が少し足りない状態で難しいパッセージを演奏しなければならなくなったり、ということが発生する。
リード楽器の場合は、リードそのものの状態も全く違ってくる。
だから通して練習するのだが、その練習だけをしていると、今度は一曲一曲が粗くなってくる。
そのバランスが難しい。
演奏会全体を通して、一曲一曲の内容は最高の状態保つことを目指して練習する。
リサイタルともなれば、プログラムにのせるのは自分にとってチャレンジングな曲も含まれるので、本当に大変だ。怖い。
演奏会でさえそうなのだから、フィギュアスケートで、しかもこの難易度のプログラムで、ーー彼のプログラムの難度の高さはジャンプだけではないーー一つ一つの演目の完成度を落とさずに単独ショーを滑りきるのは、私は不可能だと考えていた。
いや、どう考えたって不可能なはずなのだ。
演奏するのとでは、身体への負担が半端なく全く違うのだから。
ジャンプを全て降りきるだけでも難しいだろうと思っていたけれど、それに加えて、例え全部降り切れたとしても、他のプログラムで、動きがやや小さくなったり、キレがなくなったり、ということがあるのは不可抗力だと思っていた。
どこかでセーブしなければ、無理だからだ。
だって、競技会では4分の演目をやるのでさえ、体力を考えてペース配分している選手がほとんどではないか?
それなのに。
全てのプログラムにおいて、この完成度。
ただミスしない、ということではない。
一つ一つのプログラムに込められた想いが
くっきりと伝わってくる、
そういう意味においての完成度。
勿論、それが練習によるものだということは明らかだったけれど、それがどれほど過酷なものであったか。
『破滅への使者』が終わったとき、私は涙を抑えることが出来なかった。
一体、どれほど練習してきたのだろう、と思って。
とても想像すら出来ない。
公演後の記者とのやり取りで、
『達成感がある。オリンピック穫ったくらいの練習をしてこられた』
と言っていたのは、当然だろう。
しかし、それをやったからといって、
今度は金メダルが得られるわけじゃない。
それでもやるんだ。
本当に、あなたという人は、、、、、、。
本当にこれは、『スポーツ』としての観点からも、
フィギュアスケートという分野を全く新しいレベルに押し上げた演技、公演だった。
『不可能』と思われた固定概念に、挑戦し、またしても打ち破ったのだ。
その勇気、覚悟、そしてそれをやり遂げる気持ちの強さ。
フィギュアスケート関係者は絶対これを観るべきだ。
恐らくフィギュアスケート界は少なくとも公式にこれに触れることはしないのだろう。
触れなくてもいい、しかし絶対観るべきだ。
彼に金メダルをあげられるのは、
私たち、この公演を観た人間だけだ。
彼に、私達が受け取った感動、そして
感想を
嵐のように浴びて貰いたいと思う。