蒼い炎Ⅳ | しょこらぁでのひとりごと

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羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。


昨夜『蒼い炎Ⅳ』を読み終えた。

share practice,プロローグ、GIFT、notte stellata、SOIという、彼のプロ転向以来の流れをトータルで振り返りたいと思っていたところだった。

本を読んで改めて、その流れの根本に、ここに書かれている彼の競技時代最後の4年間があると思った。
だから、そのあたりも踏まえて、感じたこと、考えたことを書き留めておきたいと思う。

ネタバレには当たらないと思うが、気になる方は本を読んでから来ていただけたら嬉しい。


まず最初に感じたのは、この4年間の演技内容について、ジャンプの成否や与えられたGOE、PCSなどの点数で語るのは、全く意味を為さないな、ということだった。
それらは、私が実際に観て感じたことのほんの一部さえ、伝えてこない。
本としては、事実を積み上げることに徹したのだろうけれど、それらは、時として事実でさえ無い、ということに、改めて愕然とさせられた。

プロトコルは、『記録』であるはずだが、その仕事さえ、もう果たさなくなっていたのだな、と思う。
北京のFSの時も痛切に感じたことだが、この記録のどこに、彼のスケートの素晴らしさが表されている?

そもそもが、演技内容としてジャンプの『成否』ばかりが書き連ねられることに、今の私は違和感を覚えずには居られなかった。

彼が競技の世界にいるときは、私はそう感じていなかったと思う。勝つためには、ジャンプの『成否』だけが総てだったから。

それが異常なことだったと、今、プロ転向以来の彼の演技を観ていて、痛切に感じる。

同じジャンプを跳ぶにしても、そもそものそのジャンプの質、そしてそれがどのように実施されたかーーその前後の流れがどのようなものだったのか、が、どれほどの印象の違いを生むか。
スピン然り、ステップ然り。
規定の要素を満たしているだけでいいのか?
それが何も表現していなくても?
技と技の繋ぎの部分で何をやっているのか。
それは、プログラム全体を印象付けるものだが、それはどこで評価されている?

そういうことは、プロトコルのどこにも反映されていない。
そういうことを評価する筈の項目はあるが、それが機能していないのは明らかだ。
以前なら、PCSの評価を見れば、その選手がスケーティングが優れた選手なのかどうか、わかったものだったと思うが、今ではもはやそれさえもわからない。

羽生選手が自分の理想のフィギュアスケートの為に、血のにじむような努力をした、それらの部分は、プロトコルからは殆ど全く読み取れない。

その事を、改めて強く感じた。
そして、彼がそのことにどれほどの絶望を感じたか、少しかもしれないが、理解できた気がした。
私はその事に怒りを感じていたが、彼は絶望を感じていたのだ。

この本では、その時々の彼のインタビューを全て網羅しており、それらはとても貴重で素晴らしいものだけれども、その時の彼の演技そのものを本当の意味で知らなければ、それらのことばの真の価値もわからないだろう。
繰り返すが、残された客観的事実からだけでは、彼のその時の演技が観ている側に残した印象は、全く伝わらない。
その事が、この本を読んで強く印象に残ったことだった。
この本は、資料としてとても価値のあるものだと思う。しかし、ここに書かれていることの真の意味を知るためには、その時々の実際の彼の演技の映像を見返す必要が有るだろう。



しかし、結局、観ている者に何かを伝えてくるのはそういう、今のプロトコルに反映されない部分なのだということを、彼のプロ転向以来の演技が、私にはっきり証明してくれたと痛感している。

share practiceから始まって、公演がすすむにつれ、それがより明らかになってきていると思う。
私が長年夢見てきたフィギュアスケート以上のものを、彼は今、見せてくれているのだから。
正直、今までのフィギュアスケートとは、全く次元が違うと私は感じているのだ。

フィギュアスケート最大の魅力は、音楽を表現しきる時に発揮される。
そう断言出来るようになったのは、羽生選手の最近の演技を観てからだ。

かつては、フィギュアスケートだから仕方ないよね、と諦めていた部分を、彼は次々とクリアしてきた。
その始まりは、2020年全日本の『天と地と』だった。競技プロでも、ここまで出来るのか、と本当に感動した。
阿修羅ちゃんもその一つ。(前記事)
そして、プロローグでのsing,sing,sing!
彼なら、本当のJazzがやれる!
いつの間にこんな事を習得していたのだろう?
完璧なスウィング感だった。
悪いが、今までこんな風にちゃんとスウィングしてくれるスケーティングは観たことが無い。
そしてSOIの『あの夏へ』で、ありきたりの『フィギュアスケートの』カンタービレ(歌うように)をあっさりとぶち破った。

フィギュアスケートは音楽を完璧に表現する事が出来るし、その時フィギュアスケートは最も光り輝くことが出来る、と私は確信したのだ。

更に、notte stellataの3回の『春よ、来い』では、そこに込めた彼のその日その日の感情がストレートに観ている側に伝わる、凄い演技だった。
2日目の演技をライブビューで観た私は、苦しくてたまらなかったが、3日目の演技を観て、それは希望へと変わった。
同じ演目で、こんなにも異なる感情を伝えることが出来るのか。。。

それは、歌詞を持たない音楽そのものの特性でもあるだろう。音楽の世界では、演奏家がその役割を担うが、羽生選手はそれをスケートで実現した。
ーーいや、有る意味、音楽を越えたと言ってもいいかもしれない。


話が少し飛躍するが、京大の前学長の山極教授が、新聞のコラムで次のような事を語っていらしたと思う。(毎日新聞だったのだが、今、その記事を探したのだけれど見つけられなかった。)

人間にこれほどまでの発展を可能にしたのは、言語を獲得したことによる。しかし、言葉を持つより先に、音楽や身体表現などが存在していた。
言葉は便利なものだけれど、それが全てではない。音楽や身体表現などは、言語よりもっと根源的なものであり、言語で表現出来ない、そういう根源的なものこそ、現代社会に生きる我々が、省みて大切にすべきではないのか、というような内容だったと思う。

そこには、絵画なども含まれると私は思うのだが、そういう、言葉にならないけれど、確かに感じられるもの。そういうものを、蔑ろにしがちだけれど、実は我々が感動させられるのは、そういう部分なのではないのか、と私は思う。
特に、SNS上などでの、実体のない言葉に揺すぶられ、翻弄されているとさえ言えるような現在の社会においてはなおのこと。

羽生選手の演技は、まさにそうだ。
美しい、素敵、素晴らしい、涙が流れた、、

その気持ちを更に言葉で詳しく説明しようとすると、実体からどんどん遠ざかってしまう。
しかし、それははっきりとそこにある。
それを感じた私の心の中に。
音楽と共に。

言語が取りこぼすものを伝えてくる音楽を、言語を越えた羽生選手の身体表現が、しかも地上の人間には不可能な方法で目の前に表現してゆく。

それを観る喜び。
時には恍惚とさせられ、
時には胸を締め付けられ、
時には熱狂させられる。

その理由など、言葉では到底語りきれない。

しかし、それらの根本には、研ぎ澄まされた技術と、音楽の表現しているものを深く感じ取る感性、そしてその技術を以て自分が感じているものをそこに浮かび上がらせるための綿密で気の遠くなるような試行錯誤があるのだ。

そのための技術や感性は、現在の競技では全く要求されていない。
先日のSOIでは、申し訳ないがその次元の違いがはっきり現れていたと思う。
それは、スケーティングが上手いということだけでは、到達出来ないものだ。(それも不可欠ではあるけれども。)


この本を読んだ感想として感じた最大のことは、そういうことだった。
つまり、これほどのレベルの違いを、現在の競技の採点は全く反映する事が出来なかったのだということ。

今の羽生選手の演技が、そのことをはっきりと証明している。

だから、この本の彼の競技時代の部分は、本当に胸を締め付けられるし、怒りを感じるけれど、どちらかというと、フィギュアスケート界は、本当に馬鹿なことをしたな、という気持ちの方が大きかったかもしれない。彼の演技を評価することは、フィギュアスケート全体が新しいステージに上がることに繋がったのに。その機会を、彼らは自ら叩き壊した。


羽生選手は、今までのフィギュアスケートの概念を軽やかに越えて、更に歩み続けるだろう。
それを目撃し続けることの出来る喜びを、私は噛みしめている。

一方、競技のフィギュアスケートの世界は、その概念にしがみつき続けるのだろう。
表面上は何と取り繕おうと、結局そういうことになるだろう。
その概念は、本当に守らなければいけないものだろうか?
真に守らなければいけないものは、そこには無いのではないのか?
それは、実はフィギュアスケートという概念でさえなくて、既得権に過ぎないのではないのか?
彼らは変われない。
既得権を手放す勇気を持たない限り。

フィギュアスケートの可能性を信じたのは、どちらだろうか。


そしてもう一つ。
今の羽生選手の演技に狂喜している私が忘れがちなことも、この本は思い出させてくれた。
彼が、アーティストであると同時に、やはりアスリートなのだということ。
4Aに対する、彼自身の思い。
それは彼にとって、やはりアスリートとしての目標だということ。
プロに転向したことで、その練習にかなりの制限がかかるのは、仕方ないことではあるだろう。
彼は責任感の強い人だから。
私は彼の演技を沢山観たい。
でも、もし彼が本当にそれを望むのなら、
私は彼の4Aを見たいと、心から思う。